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ベトナム独立革命家とソヴィエト(Совет)ロシア労農政府との出会い 

 ベトナム独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、日本を目指し1905年に果敢に祖国を出奔してから1925年に上海で捕えられる迄の生涯を自伝書『自判』に遺しました。

 先の記事自伝書に『自判』(自己批判書)と題名した潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)はどんな人?にも書きましたが、非常に真面目、朴訥で愛嬌のある性格の人だったと思います。彼自身、自分の長所は「人と接するとき、もしその言の半分でも聞き取って、少しでも善が有ると思えばこれを一生忘れなかったこと」と言っているように、滞在した国々何処でも広く交友関係を築いた逸話が自伝中に描かれています。

 そんな潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏でしたから、『自判』の中になんと当時の新興国・ソビエトの在華代表に会いに北京へ赴いたことが書いてあります。

 「庚申(1920)年11月頃、赤色ロシアの社会共産党が北京に集まって来ている、中でも「北京大学が彼等の大本営」と噂に聞いた。持ち前の好奇心と、丁度共産真理というのを研究して見たいと思っていたところだったのだが、訪ねて行ったところで何も知らないでは話にならぬから、日本人布施辰治氏の著書『露西亜の真相』を入手して、懸命に頁を捲り彼等の制度に於ける労農政府主義というものを良く理解できたのでこれを漢語へ翻訳して2冊の本にした。それを持って早速北京へ飛んだ。
                     『自判』より

 流石ベトナム人…凄い行動力です。。。😊😊
 因みにネット情報では、布施辰治(ふせ たつじ)氏は、「宮城県出身の弁護士、社会運動家」だそうです。ファン・ボイ・チャウが、日本で「共産真理」を学ぼうと思い立ち真っ先に手に取った本がこの方の著書だったのは大変に興味深い事、どなたからのお薦めだったのかなぁ??😅😅などと探索するのも楽しいと思いますが、先に進みます。。。

 「北京大学に入って行き、蔡元培(さい・げんぱい)先生を訪ねた。私の翻訳した本に目を通した先生は、非常に満足された様子で、これならば…ということで2人のロシア人を紹介してくれた。一人は、ロシア労農遊華団団長の某氏(ロシア語だったので名を失念した)。もう一人は、漢名を”参賛(官)拉(ら)”先生といい、カラヤン駐華大使付の人。これが、私が直接ロシア人と交流した初めてのことだった。」
              
『自判』より

 ネット情報に依りますと、蔡元培(さい・げんぱい)氏は、「中華民国初代教育総長、1916年から1927年まで北京大学学長」とありましたので、『自判』記述と合致します。「浙江省出身の思想家、章炳麟(しょうへいりん)らと光復会を組織」し、「日本に亡命し、孫文(そん・ぶん)、黄興(こう・こう)らと交遊」した人物だそうですので、多分ファン・ボイ・チャウやクオン・デ候蔡元培(さい・げんぱい)氏と日本で面識があった可能性大ですね。。。😅😅

 「私は、拉(ら)先生に、”我が国人も貴国へ留学したいと思っておるが、ご方便をご教示願えないだろうか?”と尋ねた。
 拉(ら)先生は、”労農政府は、世界同胞がロシア留学することを大歓迎します。ベトナム人の留学は特に容易です、北京から海参崴(ウラジオストック)までは、水陸路どちらも可能、海参崴・赤塔(チタ=中国・モンゴル国境に近いロシア極東の町)からは鉄道を使ってシベリアまで来れますから、そのままモスクワまで乗れば良いのです。旅程はたったの10日あまり、(中略)渡航費用は大体200ドル位でしょう。“
」                 
                 『自判』より

 『潘佩伝』の著者内海三八郎氏は、東京外国語大学仏語及び英語学科卒業商社マンでしたので、多分当時の世界交通事情を能く御存知だったのでしょう、『自判』本文には記述が無い旅程を具体的に補足してくれてます。⇩
 「北京からウラジオストックまでは天津または大連経由で汽船の便があり、ウラジオからモスコーまではシベリア鉄道」
 「北京から、満鉄で国境まで行き、その先はシベリア鉄道でモスコーまで直行」   
 『潘佩珠伝』より

 私の憧れ😊、シベリア鉄道の旅。。。
 そして、拉氏は、”留学者の条件”としてロシア入国前に決心が必要、と潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)に言ったそうです。

 「1)共産主義信奉、2)学を納め祖国へ帰国した後は、労農主義の宣伝を担うこと、3)帰国後は、社会革命事業に注力すること。
 ロシア留学中の滞在費学費一切と帰国費用は、労農政府が全額負担するという。これが拉氏との会話内容であり、この時は黄廷遵氏が英語通訳をしてくれた。」             
『自判』より

 「黄廷遵氏」は少し調べましたが特定出来ず。露-英の通訳者ということですので多分中国の方だと思います。

 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、この面会時の文章をこの様に締めくくっています。
 「私は、彼の言ったこの言葉を覚えている。
 ”先生は、私達が接した初めてのベトナム人です。もし先生が英語がお出来ならベトナム国内でのフランス人の振る舞いを仔細に記した本を書き、私達に贈ってくだされば、誠に恩に着ます。”
 実に残念だが、私に英語本は書けなかったから、彼の誠意には答えられなかった。」
     『自判』より

 以上のように、たったこれだけの短い文章です。

 しかしですが、どうも戦後日本のベトナム研究界に於いては、ファン・ボイ・チャウの自伝から此の「北京でソビエト共産党と接触・面会した」という僅かな記述部分を切り取り、(愚かな皇子)クオン・デ候を見限って、共産主義へ転向した証拠だ=現在のベトナム国家に繋がる”と、無理やりこじつけるような論説が散見されます。
 しかし、実際の『自判』全篇を通してマトモに読めば、溢れる愛国心と持ち前の旺盛な好奇心を持った古儒者・潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏は、いつどこでも国、民族、主義、会派など拘ること無く、ただ”救国一途”に多種多様な人々と接触を試みた記述が満載で、共産主義に転・偏向したような記述は発見できません。
 ”死人に口なし”とばかりの変なこじつけは古儒者の面目丸つぶれ、ファン・ボイ・チャウもきっと草葉の蔭で無念ではなかろうかと思います。。。

 それよりも、私は以前からここに面白い研究テーマが隠れてるなと思ってましたので、今日はそれにスポットを当てたいと思います。。。😅😅

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 先の記事「ベトナム独立運動家 ファン・ボイ・チャウの自伝に書きましたように、、、
 『潘佩珠伝』の著者内海三八郎氏は、1960年代のある日”見知らぬベトナム人”から手書き漢語版『自判』上下2冊が入った小包みを日本の自宅で受け取ったと書いています。
 内海氏自身はこれを「書写本」と表現してますが、私があちこちの関連書記述を総合した結論として、これはこの世に一冊しか存在しない『潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)直筆の漢語原本』です。
 原本完成は1938年。ベトナム語翻訳版は、南北分裂(1955)後に、『ベトナム共和国(南ベトナム)』で1956年に出版されましたが、 肝心の『自判原本』は、その後(ベトナム戦争)の焚書を免れ、不思議な縁を頼って奇跡的に日本に避難して来てたのです。
 もしかしてこれは偶然じゃない。。。この『漢語原本』と『ベトナム翻訳本』の比較研究の使命を持つのが日本人なのかも!と一人勝手に使命感に燃える私(←ただの主婦。。。笑)😅😅

  その前提で、内海氏の『潘佩珠伝』(1999)の中のこの一節を取り上げますと、⇩
 「…当時潘の印象に深く残ったことは、ロシア人が彼と対談中、その言葉と態度にいささかの誇張粉飾もなく、自然のままに一語一語をなおざりにしなかったことであった。」
 この様に内海氏は書いていますが、しかしこの文章、「ベトナム語版(1956)」と照らし合わせましたら、書いてないんですよね。おかしいナ?、と思って、念の為に「漢語原本」(1938)を見たら、、、、なんと原本には書いてある。😐 
 どういうことでしょうか。。。??
 
 『自判』は、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が周囲に居た弟子らへ口述し、ローマ字化文字タイプを打ったこの弟子達の手によってベトナム語版原稿が作成されました。ベトナム語原稿は、戦火と焚書の危機を乗り越えて1956年に南ベトナムで出版された。ですから、この時に弟子たちが上述の文章を『故意に省いた(控えた)』と仮定して、時系列に整理してみます。
 
1)1920年頃には、ベトナム革命運動の中心人物が北京で、自国学生のソビエト留学方法を教示願った。⇒共産主義への印象は非常に良好
 
2)1938年の自伝書完成時点で、共産主義・労農主義・ソビエトに関して嫌悪感が無かった。(或いは少なかった。)

3)1956年のベトナム語本出版の時点で、南ベトナムで出版・流通するに「不適当な内容」だと判断された。⇒民衆の間で共産主義への嫌悪感が拡がっていた、定着していた。

 この様に考えられると思うんですけど、これはあながち暇人の妄想とも言い切れない。その根拠は、ベトナム語版の出版社『ANH MINH(アイン・ミン)書店』のこんな注釈があるからです。⇩

*『滞在費学費一切、労農政府が全額負担』⇒ ソビエト・ロシアの甘言誘惑巧みなことこの上ない。

*『実に残念だが~誠意には答えられなかった』⇒英語通訳者には事欠かなかった筈なのに潘先生はソビエト・ロシアの誘惑を見破って上手く交わしたのだ。

 この様に、”嫌悪感”丸出しなんですよね。。
 
 こうして見ると、1938年から1956年のたった18年弱で急激カーブを切り、当時の南部ベトナムに於いて”対共産主義(ソビエト・ロシア)感情”が激変したのは或る意味近代ベトナム史の一大ミステリー。😨

 


  

 
 
 
 

 
 
 
 

 

 

 

 

 

 
 
 

 


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