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ベトナム独立運動家の見た日露戦争直後の明治日本・見聞録 その(3)

 先日、こちらの2話を投稿しました。⇩
 ベトナム独立運動家の見た日露戦争直後の明治日本・見聞録 その(1)|何祐子|note
ベトナム独立運動家の見た日露戦争直後の明治日本・見聞録 その(2)|何祐子|note

 意外にも、この記事を沢山の方が読んで下さり大変嬉しく思いまして、もう一つ、明治期の日本にやって来たベトナム人が経験した実話をお届けします。
 やはりベトナム独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の自伝書「自判」の中に書かれている、潘佩珠の後を追いはるばる日本へ渡航して来た青年達の内の一人、梁立巌(ルオン・ラップ・ニャム)君のエピソードです。

 彼は、「1906年のベトナム人留学生の第一陣」で、ベトナム人として初めて東京の振武学校に入学した記念すべき第一期留学生、それが梁立巌(ルオン・ラップ・ニャム)君でした。

 「此の年10月、横浜に着いて旧寓に入ると、その處には既にわが国の一少年梁立巌君が居りました。その人を見るに、英気勃々頭髪は蓬の様に乱れています。事情を聞けば、単身海を越えて来たり、上陸した時は懐中只銅貨三枚を余すにすぎなかったという。私は喜び、かつ驚いたのです。けだしわが国人の小童が単身万理の風濤をおかして、全く知りもせぬ異境に来るのは、恐らく梁君が初めてでありましょう。君は本来奇気をたくわえ、私が東渡したと聞いて、ついにまた奮然としてこの行に上がったのであるとのこと、後来の俊秀少年中にも、君のごときは珍しいことであります。」
      ファン・ボイ・チャウ著『獄中記』より 
 
 「ハノイから梁玕(ルオン・カン)氏の息、梁立巌(ルオン・ラップ・ニャム)と梁毅卿(ルオン・ギ・カイン)兄弟、もう一人は、阮海臣(グエン・ハイ・タン)、河東(ハ・ドン)の阮典(グエン・ディエン)ともう2人が祖国を出国して来た。横浜に着いた時は、皆懐中には一銭もなかったが、それでも横浜の私の住まいをなんとか訪ねて来た。」
        ファン・ボイ・チャウ著 『自判』より

 当時はまだ仮住まいだった潘佩珠達の住居に、6人の若者が増えました。けれど、本国からの送金もまだ到着していませんでしたので、あっと言う間に困窮してしまいます。苦労人の曾抜虎(タン・バッ・ホー、→ベトナム志士義人伝シリーズ① ~曾抜虎(タン・バッ・ホー,Tăng Bạt Hổ)|何祐子|note )が、広東人のやっている商店から米と薪を買って来たのでこれで当座をしのぎ、それから黒旗軍の劉永福(りゅう・えいふく)ベトナム史の中の黒旗軍・劉永福(りゅう・えい・ふく)将軍のこと|何祐子|note )に一時の援助を頼みに、臨時雇いの船乗りをして広東まで戻って行きました。

 横浜の仮住まいに残った9人は、「祖飯一日二回、おかずは塩漬け菜と一杯の茶のみ」、狭い部屋で膝を突き合わせご飯を食べていました。日本はこの頃冬の時期で、雪が雨の様に吹きつける寒い日が続いていましたので、潘佩珠は南国育ちの少年達のことを大変心配しました。けれど、少年たちは、「感心なことに、互いを励まし合い、誰一人として不足を訴えるものはなく」、その中でも特に傑出していたのが、梁立巌(ルオン・ラップ・ニャム)青年だったそうです。

 「最も頼りになったのが、梁立巌。彼の行動は、他人の意表外に出て、冗談を言いながら物事をどんどんまとめて行く。ただ座っているだけではじり貧だと、”物乞いしてくる、こんな時に物乞いしなくていつやるんだ!” と言うや、朝飯を抜いて元気よく東京を目ざして歩いて行った。」

 
そうして、夜まで一日中歩き通した立巌青年でしたが、疲れが溜まったのか、はたまた何かの作戦か、、、😅 警察署の前に着くと、戸にぶつかり転がり込んで、地面の上に寝転がりました。
 「警察官が質問しても、立巌君はまだ日本語が何も分からなかったから、ぼけーっとした表情のまま何も返事をしない。服のポケットには何にも入っていない。この様子を見た警察官は、心身障害の子か、、と思ったらしかった。筆記用具を渡すと筆記で会話が出来たので、それで、その子が”インドシナ”人の青年だと判った。この珍しい国から来た青年に、日本の警察官は、横浜までの汽車賃を握らせてくれたのだった。」
      
ファン・ボイ・チャウ著『獄中記』より 
 
 
この時に警察官が渡した汽車賃は、この警察官自身のお金だったのでしょう、何となく、古き良き頃の日本を思い出しますね。。。
 そういえば私の母も、訪問販売の人の身の上話を聞いて同情してしまい、夕飯のおかずを全部持たせてあげて、後で我が家の夕飯は食べる物がなかったなんて、私の子供の頃の笑い話を思い出します。😅😅😅 こんなのは、昭和までかなぁ。。。
 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)も、『獄中記』の第6章に、
 「旅中、種々の事柄について用があれば、街路に出で、剣を帯びて来る者を待ってこれに計れば、その人は私のために文字を書いて、世話周旋はなはだ親切である。私はここにおいて、日本警察行政の誠によく整えるに敬服した。」
 と書き遺してくれています。
 今でも、私の住む田舎の町の駐在さん、昔風に呼べばおまわりさんは、本当に優しくて真面目で親切な人ばかりです。

 さて、警察官に横浜までの汽車賃を貰った梁立巌青年でしたが、真直ぐ横浜には帰りませんでした。腹ごしらえをして、また東京に向かって歩き出します。東京に着き、中国人留学生らを片っ端から頼って歩くうちに、偶然「民報報館」に辿り着きました。

 「この新聞社は、当時日本にあった中国革命党の報道機関で、章大夫(章炳麟、しょう・へいりん)が主筆、現在の北京政府の要人である張継(ちょう・けい)が管理者であった。」
 「梁立巌君は、この報館の扉を入って行って、自分達の身の上をこの2人に話して聞かせた。2人は、大いに同情を寄せてくれて、立巌君を三等書記として雇用してあげようと言ってくれた。それだけではなく、立巌君に、横浜に戻って君の同志を後2,3人連れて来なさい、まとめて面倒見てあげるから、と言ってくれたのだった。」
 
 
なんと、、こんなところで偶然にも章炳麟と張継の要人2人と面識が出来た上、振って湧いたような援助を受けることが出来たのです。同じ祖国救国の為に革命を志すアジア人同士、同文同種の有難さ。。。

 章炳麟(しょう・へいりん)氏(1868-1936)とは、
 「清末、民国の古典学者。革命家。字は太炎。浙江省の人。早くから民族革命を提唱、孫文、黄興と並んで革命三尊と称された。1898年から1911年の間、亡命のため3度渡日、その間東京で中国革命同盟会の機関紙「民報」の主筆となった。辛亥革命の成功を聞いて帰国、革命政府の中枢に参与したが、やがて政界を去って引退した。」
          
 と、このような⇧人物です。そして、張継氏(1882-1942)とは、
 「中国の政治家。日本に留学、下田歌子らと興亜会を起し、また留学生総幹事となる。幸徳秋水と交友があり、幸徳事件後渡仏。第一、第二革命に参加。国民党の創立に努め、広東護法政府の駐日代表となった。孫文の死後共産党を排除、政府の要職を歴任した。」
          『ベトナム亡国史 他』より  
  
 ⇧ このような人物だそうです。。。
 この時の梁立巌君の奇抜な行動のお蔭で、「民報」の幹部らと知合いになるきっかけが出来ました。この直ぐ後に、立巌少年ら合計3名が東京の振武学校に入学できている事を考えると、多分、章炳麟氏らが口を利いてくれたことが大きかったのかと思います。

 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)も、これ以後章炳麟氏や張継氏、そして他アジアの革命家らと、日本の地に於いて大いに親交を深めました。
 余談ですが、彼らは共に1908年「東亜同盟会」という会を結成します。主な会員は、中国革命党の章炳麟氏、張継氏、景梅九氏。インドのダイ氏、フィリピンのハン氏、朝鮮の趙素昂(ちょう・そこう)氏。日本社会党の大杉栄氏、堺利彦氏、宮崎滔天氏ベトナムからは、鄧子敏(ダン・トゥ・マン)氏、阮瓊林(グエン・クイン・ラム)氏等々、、このようなメンバーの名が自伝書『自判』に書かれています。しかし、この「東亜同盟会」は結成5カ月目にして日本政府より解散命令が出されたため、殆ど主だった活動はできなかったそうです。

 話を、梁立巌(ルオン・ラップ・ニャム)君に戻しますと、意気揚々として横浜に帰った立巌青年は、元気よくベトナム同志の住む仮住まいの戸を開けました。

 「戸を開けて入るなり、大笑いして私にこう言った。 ” 伯父さん! 物乞いして、職にありつけましたよ!” 
 そして、弟の毅卿(ギ・カイン)君を私に預け、私に別れを告げ、同郷の2人を連れて東京へ向かった。東京の「民報」に食事付きで住み込み、日本語の勉強を始めたのだった。」

 梁立巌君は、別名を梁玉眷(ルオン・ゴック・クエン、Lương Ngọc Quyến)といいます。
 こちらを⇒(仏領インドシナ、ドンダン・ランソン進攻の中村兵団-第五師団のこと その①(再)|何祐子|note)すでに読んで下さった方は、お気付きかもしれませんが、1917年の「ハノイ北部太原(タイ・グエン)監獄襲撃事件」の時、梁玉眷(ルオン・ゴック・クエン=梁立巌(ルオン・ラップ・ニャム)氏は、この監獄に収監されていました。囚徒をとりまとめて獄を破り、太原省のベトナム習兵もこれに加勢しました。最期は、敵兵の銃弾を受けて死んだのです。
 
その時、共に襲撃に加わった同志が、日本軍仏印ドンダン・ランソン進攻の時のベトナム建国軍の総司令官、陳忠立(チャン・チュン・ラップ)大尉でした。
 
 この「ハノイ北部太原(タイ・グエン)監獄襲撃事件」の詳細と、日本を退去してから太原(タイグエン)監獄へ収監されて、監獄襲撃事件で殉死するまでの梁立巌少年の壮絶な人生は、また別途「ベトナム志士義人伝シリーズ」で取り挙げたいと思います。

ベトナム志士義人伝シリーズ⑦ ~梁立巌(ルオン・ラップ・ニャム)~|何祐子|note


  

 

 
                   
 
 

 

 

 
 
 

 

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