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ベトナム留学生と静岡の医師浅羽左喜太郎(あさば さきたろう)先生

 ベトナム、或いはベトナム近代史を知る方は、この浅羽左喜太郎先生と『東遊(ドン・ズー)運動』のベトナム留学生との交流や、独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)との関係のことを、もうよく御存知のことと思います。  
 浅羽左喜太郎氏は、静岡の梅山(現在は袋井市梅山)のご出身で、当時小田原で病院を開業していた医師でした。ある日偶然、道で物乞いをしていたベトナム留学生を見つけ話を聞き取り、家に連れて帰って養育してくれた義侠の人です。
 ベトナム留学生が日本政府から学生解散令を受けて悲観に暮れていた時も、何の見返りも求めずに救いの手を差し伸べてくれました。ファン・ボイ・チャウはその恩を片時も忘れず、10年後に再び袋井市を訪れ記念碑を建立しました。
 ファン・ボイ・チャウは、その時の思い出の一部始終を自伝書『自判に書き遺してますので、以前こちらの記事(⇒ベトナム独立運動家の見た日露戦争直後の明治日本・見聞録 その(2))でも一度ご紹介しましたが、今日はもう一度、『自判』の中の『日本の義人 浅羽左喜太郎翁』と『浅羽翁の墓碑建立』項から詳細をご紹介したいと思います。⇩

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日本の義人 浅羽左喜太郎翁

 戊申(1908)年の冬10月。学生は解散し、公憲会も消滅した。さあ、もうこれ以上は日本を頼れないのだから、専ら中華革命の行方を注視し、我らベトナムと≪同病相憐≫の民族を頼って行く外はなくなった。

 学生解散令を受け、私が数十日間駆け廻って掻き集めた幾何かの金は、まず帰国費用として学生に渡し、それ以外にこの時は借家賃料、外交費、本印刷費の支払いも重なったので、懐は文字通り空っぽになった。一つ屋根に残った学生10余人も、自嘲するやら泣き出すやら。私は途方に暮れて、月光下で、南宋の詩人陸游(りく・ゆう)の詩、≪山窮水尽疑無路、柳暗花明別有村≫を吟じたりしていた。

 そんな或る日、思い掛けず出会えた義侠人、それが浅羽左喜太郎先生だった。
 浅羽先生は、嘗て道端で物乞いしていた我国の学生グエン・タイ・バッ君を見留めて身の上を聞き、家に連れて帰った。そして、我が子同様に勉学を続けさせてくれたという真に世に珍しき豪侠なお方だった。
 その後に、東京でベトナム公憲会が起ち上がったと聞いたタイ・バッ君が、一度東京に戻って同志らに会いたいと申し出ると、浅羽先生は快く承諾し、尚且つタイ・バッ君に東京同文書院の入学費用まで与えてくれた。その奇特なる先生の義侠心に対し、我々の仲間は全員心底驚いていた。
 
 学生解散の憂き目に遭い、金に困窮逼迫し、切羽詰まった私に残っていた最後の手段は物乞いだけだった。だが、高尚な物言いでやる物乞いは簡単ではない、それに、訪ねた家の主が義侠心に厚い人士でなければ、その物乞いは通用しないだろう。そんな思案に明け暮れていた時、私はふいに浅羽翁のことを想い出した。それから直ぐにタイ・バッ君に相談をしてみると、彼もこれに賛成してくれたので、私は早速筆を取って救援を請う手紙を認め、タイ・バッ君に預けて浅羽先生邸に持参してもらった。
 過日の恩も返さぬうちに、更なる大金の請援。而も、今だ嘗て顔を見た事無い人間からなのだ。私は狂人だと思われても、不思議では無かった。
 それにも拘らず、早朝タイ・バッ君に預けた手紙の返信が、もうその日の午後に千7百円の金と一緒に届くなど、誰が想像し得ただろうか。浅羽先生からの手紙には、こう書いてあった。
 「今のところ、家中を掻き集めてこれだけの金しか用立て出来ないが、必ず追加でお送りするので不足額を急ぎ電報下されたし。」
 手紙にはこの数行のみで、勿体ぶった物言いは一切無い。困窮の渦にあり、巡り合った幸運に、私の喜びは格別に大きかった。

 この頃の悲しくも可笑しな失敗の連続の中に於いて、敢て≪成功≫と呼べなくもない事柄もあった。もしあの時、浅羽翁の様に慷慨心で身銭を切ってくれる人が無かったなら、我々はその≪失敗≫へすら踏み出そうとしなかっただろう。そう思えば、浅羽翁から受けた御恩は、誠に計り知れない程の重みがある。

 離日の前に、浅羽翁に一言御礼を伝えたくて、私は国府津の翁の自宅へ参上した。お屋敷の玄関へ足を踏み入れると、タイ・バッ君が先生へ紹介してくれた。私が、御礼の言葉を述べる間もなく、先生は忙しく私の手を取って家の中に招き入れてくれ、客間で大いに談じているとあっという間に目の前に酒席を広げてくれたのだった。
 先生の態度には、俗っぽい所など微塵も無かった。元陸軍大将の息子であったが、医学を収めて医学博士となり、私設病院を開いていた。貧しい境遇の人々を診察し、終身一貫して政界には足を踏み入れなかった。会話の途中で先生は、日本の政客を軽蔑する態度を示して、「此度の貴兄らの一件は、奴等が野心でやった外交手に過ぎない」と言い、大隈重信氏や犬養毅氏など微塵も恐れ入る事は無かった。
 その日先生の宅を辞してから、その足で私は中国へ渡って行った。

 それから10年の月日が経った。再び私が日本を訪れた時、既に先生はこの世を去っていた。恩返しもせぬうちの、あの日恥じを偲んでの懇請に対し、先生から大恩を頂戴したことに深謝の気持ちを忘れずに居た。だから、この知己へ自分自身の感謝の意を表す為に、先生の墓前に石碑を建てこの文字を彫込んだ。
 ≪予等以国難奔走扶桑 公哀其志 極於困 弗冀諸酬 蓋古之奇侠也 嗚呼今竟亡 公矣蒼茫天海 俯仰回顧 閲其無人 蒼茫海天 海俯仰誰 
爰泐所感于石 銘日 豪空古今 義亘中外 公施以天 我受以海 我志未成 公不我待悠悠此心 其億萬載    越南光復会同人謹誌≫ 

 浅羽翁の墓碑建立 


 石碑建立の一件でも日本国民の民度の高さが判るというものだ。だから、下記に詳細を書き留めて置くことにする。
 私が静岡県に到着した時、頭には碑建立の事があった。調べて見ると、材料費と彫削加工費が併せて丁度約100円、それに運搬費と建設費で更に100円が掛かる。私の所持金は120円だったから、これでは多分足りないだろうと考えていた。だが、もう故人に約束したのだから絶対にやり抜くしかないと、友人の李仲栢(り・ちゅうはく)君に同行をお願いし、浅羽村の村長だった浅羽幸太郎氏の屋敷に伺った。
 来意を告げ、過日に我々が受けた浅羽翁からの援助を説明し、碑建立の意志を伝えた。浅羽左喜太郎翁は、生前そのことを誰にも話して居なかったらしく、私の話で初めて嘗ての浅羽翁の善行を知った村長は大いに感動し大賛成してくれて、早く建立してはどうかと勧めてくれた。そこで私は正直に、まだお金が足りないこと、故に今は100円を預かって頂き、中国で残額を揃えて戻って来るので、その時この事業を完成させたい旨を申し出た。すると、村長は私にこう声を掛けてくれた。
 「貴殿らは、我が村民との記念に心を寄せてくれた。その志に村長としてお手伝いしたい。何もまたわざわざ面倒を背負い込むには及びません。」
 こうして、村長から大変有難いお言葉を頂戴した上、その日は私を自宅に泊めてくれて、晩にはご家族揃って歓待してくれた。
 その月の土曜日、村長の案内で村の小学校へ行くと、村長は生徒へ向かって、「明日は日曜日だ、村長からの訓諭があるので君らの父兄全員を学校に招きなさい」と伝達した。私の見た限りでは、日本の現行地方自治規則で云う≪村長職≫とは、即ち村の行政首領のことだろう。
 その当日、村長の後ろに着いて学校へ行くと、各戸の家長が全員揃っていた。村長が演説台に立ち、先に浅羽先生の義侠話をしてから私と李仲栢君(李仲柏君は我国人、日本の工学進士)を村人に紹介した。村長は続けて、
 「人類存続の長短を左右出来るのは、唯一相互親愛の想いだけであろう。我が郷土の浅羽氏は、義侠の心を以て他国の人を援助した、それが今頃になって芽を出して、我ら村民へこの様な栄誉を与えてくれることになった。我が村に於いては嘗て居ない君子だと言えるのではないだろうか。此度このファンさん、李さんお二人は、我ら村民を尊重し、浅羽氏の石碑を建てるため、波風に抗い万里の海路を遥々やって来てくれた。我が郷里に対するその仁義の重さはなんというべきか。そんな彼等に対し我ら村民が無関心で傍観したら恥ではないか。それは、この村のみの恥ではない、我が日本国民の恥だと私は思う。」
 村長の言葉が言い終わらないうちに、万雷の拍手が起こった。
 
 それから約一週間後、石碑は建立された。高さは西洋尺で約4尺半、素材は日本の天然石の中でも希少種の天然石。厚さ5寸、横幅約2尺、彫り込まれた文字の大きさは子供の手のひら程度。石碑の完成当日は、再び全村民が集まって落成式を執り行った。彼らが出し合ったお金で饗宴を開いてくれて、我々以外にも周辺の村からの来賓が居り、酒と御馳走でもてなした。全ては村長の取り計らいに拠ったものであり、我らの持ち出しはたったの100円のみだった。

 私の平凡な文章では伝わり切らない恐れあるが、我が祖国の同志たちへ、日本人の義侠心をお知らせしたい故、書き留め置く。



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