見出し画像

『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第14章 支那へ渡り、そして再び日本へ~

 クオン・デ候はこの頃、浙江軍事編集所発行の兵事雑誌で編集者として働いていた潘帯珠(ファン・ボイ・チャウ)に会いに広州から杭州へ移動します。
 軍事編集所の主任の名は、林之賀(りん・しか)という福建省出身の義理に厚い中国人で、在杭州のベトナム人留学生は皆ここでお世話になったそうです。

 杭州に半月滞在したクオン・デ候は、今度は直隷派 3鎮の巡閲使として洛陽に進駐していた北洋軍閥軍人の呉佩孚(ご・はいふ)に会いに行きます。
 お互い直接面識はありませんでしたが、呉佩孚(ご・はいふ)が『ベトナム義烈史』を読んでおり、クオン・デ候に敬意を表して漢詩を送ってくれたことがあったそうです。
 ”ベトナム青年兵を募集して洛陽に連れて来なさい。兵訓練をして差し上げる。” 
 呉佩孚(ご・はいふ)のこの言葉にクオン・デ候は、『その頃、ベトナム革命に吹く逆風の強さを誰が知り得ようか…』と心情を吐露しています。

 当時の洛陽の人口は3万人で殆どが回回(イスラム)教徒。場所でいうと、丁度今のウイグル自治区辺りになりますか。。。

 自伝全篇を通して余分な語りが少なく、実に男臭い性格が漂うクオン・デ候ですが、唯一この章の中では、”自分はこうありたい”と、理想を語る様な場面があります。
 それが、杭州『西湖十景』の『岳王廟』を訪ねた時のこの言葉。⇩
 
 ”西湖十景以外にも名勝地が沢山有るが、最も有名なのは岳王廟。宋代の忠臣、岳飛(がくひ)の墓です。
 尽忠報国の臣・岳飛は、金族(女真族)を打ち破った名将だったが、佞臣泰檜(しんかい)の諜計に掛かり殺されてしまった。
 けれど、この現代に於いては、廟を訪れる誰もが岳飛の墓前に来ると、皆お辞儀をして敬慕の礼を表して行きます。反対に、岳飛の墓の出口付近に置かれた泰檜夫婦の像は、皆が小石を投げつけるので、鉄製の像にも関わらず鼻や顔が欠け崩れ落ち薄汚れてしまっている。”

 岳飛(がくひ)は、800年前の宋代の英雄です。
 800年が経つというのに、この佞臣秦檜(しんかい)の嫌われ様はいやはや…。
 ”いつの時代も、つい目前の富貴栄華に目が眩んでしまう人は多いが、結局嘘や偽り・虚飾は長続きせず、必ずいつかは化けの皮が剝がれるものだ。”
 クオン・デ候は、多分そう言いたかったのかと思います。
 
 (1922年9月~1923年11月) 


 

**第14章 支那へ渡り、そして再び日本へ**

 
 潘伯玉が殺害されて以降、フランスに寝返った猟犬たちは恐れて暫く支那大陸周辺をうろつかなくなりました。
 だが固より、数年前から国外の抗仏戦線の殆どを奴らに破壊され、我ら側の拠点は何も残って無いも同然でした。

 ベトナム革命運動の前途を考えれば、再度戦線を再構築せねばならないが、その頃海外で活動する同志の数はかなり減少していた上、活動場所も散り散りに散らばってしまっていた。
 国内から新たに革命運動勢力の戦士を迎えなければ、闘争への士気も維持できない。 その為、国へ潜入して出国希望者と連絡を取り、業務組織をする責任者として、潘伯玉の一件以後、東京に来てまだ間もなかった傘英(タン・アイン)を任命しました。

 1922年3月末頃、傘英は香港からサイゴンに潜入しました。
 南圻地方の後で、中北部でも活動する予定だったから、早くても8月か9月頃にならなければ広東には戻れない。私はそう考えて、8月に日本から広東に渡り、サイゴンから出て来る傘英を広東で待ちました。彼から国内活動の現況報告を得て、今後の行動方針を決める為です。
 そして傘英は、9月にハイフォン-広州ルートを通って広州へ出て来ました。

ここから先は

4,679字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?