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「安南民族運動史」(3) 〜ベトナム民族の反抗運動激化〜 (再)

 明治21年、ハム・ギ帝は敗れて捕られ、アフリカの仏植民地アルジェリアに流されてしまった。この間フランスは勤王軍の抵抗に苦しい目をみせられていたので、懐柔策を試みるようになり、明治18年には民政を布いてポール・ベルを任命し、人心鎮撫の方策を実行させた。ベルは、越南王室内で外夷によって身を保とうとする分子の糾合に努め、官人のうちから皇帝の名によって「忠順」なるものを選ばせ、これに「経略(キン・ロク)」という官名を與て東京(トンキン)に駐在させ、フランスに協力して人心の安定に奔走させた。

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 1802年に嘉隆帝が再統一する前まで内乱状態にあったベトナムですから、当然フランスが侵略に来た頃はまだまだ軍人が現役で、直ぐに皇軍出陣の体制が整っていた筈です。その為もあると思いますが、フランスが侵略を開始しても、ベトナム尊王義軍による蹶起は止むことなく頻発しました。
 フランスが、ベトナム側の抵抗に困り果てていたことが判る一例が、当時のフランス軍大佐、ゴスラン(Gosselin)の回想記「Empire d’‘Annam(エンパイア・アンナン)、1904年パリ(Librairie Academique de Didier)出版」にあります。
 1885年ハムギ帝の詔勅を奉じて挙兵し、帝の流刑後も10年に亘って抵抗を続けた潘廷逢(ファン・ディン・フン)軍に関する記述です。

 「潘廷逢は、軍事経営の才に長け、西洋式の高度な兵隊訓練法に熟知している。兵士達は統一された軍服を着用し、1874年式銃を下げている。この銃は、彼らが自分たちでしかも大量に鋳造した銃で、質はフランスのものと全く変わらない。ただ、銃筒内部に溝が無い為、弾が遠方へ飛ばないだけである。」  
 
 頑強な抵抗運動にあい、ベトナム義民を駆逐し続けること数十年、
 「永年の血みどろな工作ののち、東京(とんきん)及び安南の国境は、フランス軍の銃剣が執拗に脅かした結果ようやく鎮静に帰した。1891年、山獄地方の『匪賊』が根絶せられ、5年の後、支那当局は自国南部の国境に西洋強国が出現するのもやむを得ないと諦め(た)」
                   『印度支那」より

 尊王義軍・皇軍も、西洋人から見れば『匪賊』。抵抗した罪で『戦闘犯罪人』という訳です。。。😵‍💫😵‍💫😵‍💫 
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 しかし、各地では依然として義軍の勢が盛んで容易に鎮圧すべくもなかった。フランスは、経略(キン・ロク)、その他自己の走狗となる越南人を駆使して徹底した惨虐な殲滅策をとり、行政組織網を挙げて弾圧に精力を集注した。
 ひとは秘密警察の適例としてあれこれ例を挙げるが、その事例よりも更に強力な密偵網は、昔も今も印度支那(インドシナ)に張り巡らされており、全く土着民は窒息状態に陥っている。この弾圧策は、既に遠く極く初期の民政時代から行われているフランス伝統の異民族統治策である。

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 走狗となるベトナム人を駆使した殲滅策は、こちら→ファン・ボイ・チャウの書籍から知る-他国・他民族に侵略されるとその国・民族はどうなるのか? その(3)|何祐子|note に書きました。

 「窒息状態に陥る」とまで形容されるほどの弾圧とは、一体どんな政策だったのか。潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の言を借りてみます。
 「フランス人のベトナム統治策は、最もその重きを賦税におく。ベトナム人民はその生産品たると消費品たるとを問わず、いっさい納税を免れない。」 
  ええと、、日本人も今や消費税なんて、3%→5%→8%→10%(☚今ここ😵‍💫😵‍💫😵‍💫)で、今や1割も取られてますけどぉ。。それでもって、更に最近エネルギーやら保険料やら、やたらと新規の税金が目白押しですけどぉ、これはなんでしょう、気のせいであって欲しいですね。💦💦💦😅

 そして、「フランス伝統の異民族統治策」とは、、、
 「フランスは脱税を恐るるが故に、多く狡悪のベトナム人を用いて、税の徴収をつかさどらしめる。」
 「警官任用については特別の法制を採用している。1,父母兄弟なく、郷里に財産、家業を持たぬ者。2,相貌が獰猛凶悪で、一見冷酷なるを知らるるごとき者。3,自ら自分の父母の名を呼んで、これを痛罵し得る者。」
 「彼等は実に舌に剣あり、唇に刀あり、眼に銃弾あり、フランスの敬愛を受けている。」       
   『天乎帝乎』より

 ・・・こんな世の中じゃあ、もう読んだだけで窒息しますね。。。 
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 明治28年前後になると、越南の義軍は漸く力を失って、征服者の前に屈服するの已むなきに至った。殊に有力だった乂安(ゲアン)及び河静(ハティン)の潘廷逢(ファン・ディン・フゥン)が捕えられて首を刎ねられた。十数年の間、苦汁を嘗めさせられたフランス当局者は、ただ敗将の首を刎ねるだけでは納まらず、その一族郎党を連座させて処刑し、家屋敷を焼き払い、そのうえ彼らに縁のある村までも焼却して村人を殺し或いは四散させた。かような無残な犠牲となった村及び村人の数は枚挙に遑がないほどであった。しかも此のフランスの蛮行の手先となったのは腐敗した亡国階級者たる官人連中及び帝室そのものであって、フエ亭室は越南刑法をフランスの利益になるように改正し之を励行した。

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フランスの手先となった高級官人の話は、こちら→ベトナム独立革命家が見た-国を売り、外国の為に奔走する人々 |何祐子|note の記事に取り上げました。

 当時のベトナム国内の行政の混乱の様子は、T.E エンニス氏が著書に纏めています。⇩
 「安南の行政は、フランス人の来寇するまでは実質上、支那と大して違ってはいなかった。皇帝の側近者は宰相及び安南王廷を組織する諸大臣だった。これらの役人の下に地方官吏があり、各地方を治め、裁判を行い、国土を守る文武兼行の制を立てていた。さらに下級の官吏は市町村当局として村や都市の行政事務を担当した。」
 「かように高度に発達した政治的社会的組織の中へ、フランス人は同化主義という宿命的な政策を持ち込んだ。結果は惨憺たるものとなった。(中略)大勢の官人連中は、支那に亡命し、或いは国内の己が家に隠居し、または天子を位に復せしめようと望んで謀叛を助けた。州や府県などでは敵意と困惑とが渦を巻いていた。」
 「土民たちの眺めるところ、下級役人は見慣れぬ監察官とか評議員などの肩書をつけて仕事をしていて、三権分立の原理はその昔ながらの組織を混乱させる始末になった。(中略)インドシナ人から見ると、それは伝統の香高い宗教的基礎に立っての行政でなく、俗臭に満ちた粗暴な、殆ど人非人の振舞とも言うべき施政ぶりであった。」
 
 
ええと、💦💦 日本も最近、公職選挙法違反する総務大臣とか、援交する国会議員とか、一所に写真に写っても記憶が無くなっちゃう大臣とか多いですけど。(笑)😅😭😭

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 フランス人は、欧米の政治的性格たる個人主義民主政治を政治上の公理としている。この政治によってのみ秩序が保たれ、これと異質の政治精神による国家は無秩序であると断定して憚らない。故に千年の永きに亘って東洋政治原理の一である儒教精神を支柱として国家を営んで来た越南国民に対して、強圧力を以て西洋政治精神を実践し、土着民の伝統的な政治精神と組織とを破壊し、土着民の政治上の発言を阻害した。これによって先ず叙上の如く勤王軍の蜂起に悩まされたのであった。
 一般民衆に対して、西洋社会の生活原理たる個人主義精神に基く政策を強行し、更に貿易の独占によって、土着民の必需品の輸入を禁止し、苛酷な租税及び強制労働を賦課して勤労大衆を極度の貧困に押し込め、酒、塩の専売によって大衆の必需品を間接税徴収の要具としてしまった。越国の民は此等の租税のため、一年に平均一カ月間の全収入を徴収されている有様である。

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 『印度支那』の中で、T.E エンニス氏は
 「東洋では、法典は大綱を定めるだけで、役人は自由な解釈を施すことができる。西洋では大多数者の利益(すなわち公序安寧)が、法律上の学理と実際との中核をなしている。東洋では全体が部分(すなわち家族)のために犠牲となる。従って、フランスの国家的個人主義とインドシナの家族的集団主義(ドメスティック・コレクティヴィズム)との間に様々な誤解が生じてくるのである。」
 
と述べています。大岩誠氏の邦訳本の発刊年が昭和16年(1941)。もう既に80年が経ち、戦後日本はどんな変化を経て来ましたでしょうか。

 
仏領インドシナで、フランスが人民に課した人頭税を筆頭とした租税の数々はこちら→ファン・ボイ・チャウの書籍から知る-他国・他民族に侵略されるとその国・民族はどうなるのか? その(2)|何祐子|note に書きました。
   その為に起こった人民による示威運動はこちら。→ベトナム志士義人伝シリーズ⑥ ~ベトナム義民による抗租税事件(1908年)~|何祐子|note

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 先には、言わば越国社会の上層部が、皇帝が擁護する勤王軍の義軍が展開されたに過ぎなかったのが、次第に攘夷の志念は下層階級のものまで之を懐くようになり、反フランス的運動は真に民族開放運動たる正確を帯びて来たのである。勤王軍は、相次いで壊滅の悲運に陥ったが、帝室を中心とする祖国恢復の熱望は毫も衰えなかった。
 この機運を更に高めるのは、フランスが同慶(ドン・カイン)帝を擁立し、越国官人を懐柔して帝威を軽からしめた行動であり、さらに又、咸宜(ハム・ギ)帝を継いだ成泰(タイン・タイ)帝を軟禁状態に置いて、益々激しい圧制政治を強行したことであった。そして、フランスは明治40年に成泰帝を退位させ、その第4子である維新(ズイ・タン)帝が第11代皇帝に即位させる。この事件は越南の知識層を大いに怒らせた。成泰退位の横暴、及び その子供に、外夷に逐われた父帝の位に就けたのは、儒教精神を破壊するものであると憤慨せざるを得ないと、孝道に反する行為をなさしめる外夷の蛮行に激しい憎悪を感じたわけである。首府フエを中心として越南の民族主義者は反抗運動を展開し始めたのである。

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 『安南民族運動史概説』の著者、大岩誠氏も、『ベトナム帝朝・阮氏世譜』(⇒ 阮(グエン)朝の皇帝系図|何祐子|note)に、「フランスが恣に帝位継承の順位を混乱させた点に注意せよ」と書いています。

 第10代成帯(タイン・タイ)帝の頃のフエ王室の状態を、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が書いています。
 「ベトナムの現在の王は、成泰王といわれる。フランス人は、内殿をその住まいとしてとどめ、皇帝という名をその称号として残してはいるが、宮殿の門はフランス兵ですべて固められ、その出入りは一人一人フランス兵によって管理されている。国王が一歩都を出れば、すべてフランス人の指令に従わねばならず、国内の一切の政令、詔勅も、まずフランス人に伺を立て、その応諾を得て初めて施行される。また、フランス人が自分の意向を示すと、その奴隷となったベトナム人が五拝三叩首の礼(ベトナム人が国王にまみえる際の礼)を行い、唯々としておもねり従う。そして、皇帝は両手を拱いたままただうなずくだけで、一言も口をさしはさむことができないのである。」「フランス人はわざとこの飾り物を虚位に留めて(いる)」
             
 『ベトナム亡国史』より

 この頃は、フエ皇居の敷地内にフランス理事長官官邸が建っていましたから、眼の前で24時間見張られる皇帝と廷臣、ましてや塀の外の人民は何も出来ないです。いくら広い敷地に豪華な宮殿といっても、敵が内側に住んで居れば地獄に等しい。
 

 

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