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安南貿易家・角屋七郎兵衛栄吉と『交趾松本寺』

 「…以て当年、南陲剽悍(なんすいひょうかん)の士、はるかにその地に勇躍せる状を見ることを得よう。その後、わが僑民の彼の地に産を営む者また多く、今日、なお広南(クアン・ナム)に当時日僑(日本人居留民)の架したる来遠橋の残るあり、僑民の墳墓すら所在に見るという。」
                『獄中記 序』より

 これ⇧は、ベトナム独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の著書『獄中記』(1914)の邦訳版に序文を寄せた南溟生氏の言で、日付は『昭和4年3月(ヴェトナム保大4年)』です。

 この「日僑(日本人居留民)の架したる来遠橋」とは、
 「広南の貿易港会安(ホイ・アン)にある、御朱印船時代に発展した旧日本人町の跡にいまも残っている日本橋。石碑に日本人がこれを造ったことを伝え、またアンナン国王がこれに『来遠橋』の名を与えたことが記してある。」
 と、「ベトナム亡国史 他」(1966)に説明書きがあります。

 『ホイアンとは、近年ベトナムでお馴染みの観光地ですので訪れた日本人の方も多いと思います。現在は全体的に所謂中華風の町ですが、古えの『日本橋(来遠橋)』が観光名所になっています。

 南溟生氏が言う、「わが僑民のかの地に産を営む者」とは、先の記事「江戸時代の外国漂流記に見る、阮(グエン)朝頃のベトナム その①「安南国漂流物語」」にも触れました、御朱印貿易で安南貿易に従事した日本商人のことです。
 「…争でか雄圖を懐いて時機を俟てる彼として猫額大なる内地航海にのみ甘んずべき、果然志を海外に馳驅して大成…」
 と言うように、猫の額のような狭い日本の海には飽き足らず、果敢に志を海外貿易に向けて大成功を収めた破天荒な日本人商人の一人、「松坂商人の角屋七郎兵衛栄吉さん」に今日はスポットを当てたいと思います。😊(何故か手元に資料がある古本好きの田舎の主婦。。😅😅)

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 「角屋氏の本姓松本氏が信濃国松本の出なることは諸書皆規を一にする所なるも(中略)その先は上野国とせざるべからず、」

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 昭和4年の「角屋七郎兵衛贈位報告会協賛会」発行の冊子には、この⇧様に書いてあります。
 「其の先は藤原房前に出で、家素より武人たり、祖先なる秀實は上野国に居りしも、後に信濃に移り、松本に住す、茲に於いて性を松本と称す、時に永享年間八幡宮の社司となる、」
 とありますので、出自は『藤原氏』、後に現長野県松本に移り住んで『松本性』を名乗りました。そしてその後、「秀實の母、秀實の次男なる孫元吉を伊勢の御師に托して胤を山田に避けしむ」、そしてその孫の「七郎次郎元秀に至って大湊に移り、廻船を業とし朝熊山より生ずる柴を積み諸国に運送して渡世す、松本性を廃止て角屋と称す」と書いてありますので、
  上野国(藤原性)⇒信濃(松本性)⇒宇治山田⇒大湊(角屋性)と、ここまで来ました。。。💦💦
 そして、松本七郎次郎秀持の時、「天正10年(1582)6月、織田信長本能寺の変」の時に、徳川家康を尾州常滑まで船に隠し乗せた大功があり、そのために御朱印を授かりました。
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 「斯く絶大の特権を得たる秀持は、幾許もなく大船を新造之を八幡丸と名付け、小牧、長久手の役には之を家康の陣船に供したり、」

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 と言うように、長野松本では『八幡宮の社司」、それで自分の船は『八幡丸』。先の記事「安南民族運動史(1)」にも見えました、「古来、八幡船で勇名を遍く南支、越南にまで轟かした日本人」の記述とも繋がるものがありますね。。🤓🤓🤓

 本家松本七郎次郎秀持の孫松本七郎兵衛栄吉は、慶長15年(1610)3月17日松坂生まれの次男さんです。
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 「…当時角屋氏の家門頗る栄え…、而も東は内地奥州より西は南洋安南を極め、兄弟叔姪互いに門戸を張りて彼之連絡し各地の産物を交換して貿易の資とし巨利を占む…、当時邦人の雄圖あるもの既に安南交趾に居留して、貿易を営むもの少なからず、」

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 この状況⇧は、以前読んだ牧久氏著『安南王国の夢』の中の明治~昭和頃の在仏印九州人の状況とも全く同じ様な印象を受けます。
 その頃、北部仏領インドシナでホテル、レストラン、雑貨屋等を経営していた殆どの人が九州、特に長崎天草出身の人だったそうで、その中から『大南公司』の松下光廣氏などの成功者も出ました。『大南公司・松下光廣氏』に関してはまた別途纏めたいと思いますが、北部仏印に天草からの天理教信者が多く移り住み、サイゴンに本社を置いた大商社の松下光廣社長が、高台(カオ・ダイ)教范工則(ファム・コン・タックと友人関係にあったこと、ベトナム国皇子クオン・デ候の援助者だったことも、見逃せない史実の断片だなと思ったりします。。。🤓
 ええと、、話を慶長の頃に戻します、💦💦 上⇧のように安南貿易が盛んとなった頃、角屋さんの次男松本七郎兵衛栄吉は志を立てました。
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 「ここに於いて七郎兵衛(栄吉)の胆気は進んで腮珠を蚊籠の淵に探るに決意せしめ、徐ろに親戚旧知に訣別して長崎に至り、更に同地の親故を訪ね、ここに別離の宴を張りて、準備を整え其の全く成るを告ぐるや、時に寛永8年(1631)七郎兵衛の年歯22歳の頃長崎を解纜す、」

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 こうして、安南(あんなん=ベトナム)に骨をうずめるべく弱冠22歳で八幡丸に乗り込み、貿易風に乗って無事に安南国上陸、交趾(コーチ)に居住を定めると、愈々活動を開始しました。
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 「…彼より以前安南に在りて貿易を営むに至り、且つ自ら多数邦人の信頼を蒙りてその地の頭目に推薦され、爾後鋭意内地間との貿易に従事し、便船ある毎に珍奇の物貨を内国の親故に送りて音信を絶えさず、其の声望を内外に博するに至る。」

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 早速現地の日本人青年商工会会頭の様な役職に就き、日安貿易の促進に邁進した七郎兵衛栄吉でしたが、「晴天の霹靂とも称すべき一大変革」、徳川幕府の鎖国令「…寛永10年2月18日…、奉書船の外海外への渡航を禁じ、異国に渡りて住宅を構えし日本人が帰国すれば死罪申し付くべし、」が附せられたのです。
 けれど、「…自己墳墓の地を交趾に定め、愈よ彼の地に踏み止まる」ことに決心して貿易を続けた七郎兵衛さんでしたが、更に3年後には徳川幕府から、「遂に外国居住人の帰朝を絶対に禁止し勿論奉書船の渡航をも厳禁され、」という厳命がとうとう下されてしまいました。
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 「徳川氏一片の法令は、哀れなる当年幾多日本の風雲児をして、全然本国との連絡を絶たるに至り…、寛文の初めに至り幕府は初めて海外居住者に対し本国への通信を許容したりしかば、絶えて久しき骨肉知己の消息は交換せらるるを得たり、」

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 こうして後に書信の往復だけが許可されたので、七郎兵衛が安南から送ってきた書簡の現物は(今は判りませんが)、私の手元資料の昭和4年頃は「京都山田山の徴古館に保管され」とあります。もしかしたら今でも保管されているのか、いつか京都に行ったらこの「徴古館」に寄ってみたいです。😊😊
 
 鎖国後の七郎兵衛栄吉さんは、
 「…七郎兵衛が安南に於ける成功を遂げたることは貸附の丁銀頗る多額なるによりて知るを得べし。」
 「…異域に止まる事30年、既に知命の齢を越え、一朝病を獲、天涯萬里の異境に在りて郷愁を想う七郎兵衛ならずとするも当然の事、」

 と、22歳で日本を離れてから、晩年は病気に罹ったとあります。その為もあったと思いますが、寺院創建の件が書信に書いてあります。
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 「又今一通の誂書は七郎兵衛が彼の地に創建せんとする寺院の扁額にて前顯梵鐘も、同じく右に供するものにて七郎兵衛の意志が自己の信仰を記念する為にも故らに日本国製のものを用いんとする家郷思慕の念慮厚きを思うべきなり。」

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 この寺院が一番上⇧に画像を張り付けた「安南交趾松本寺」なんですね。
 この「梵鐘」は、「年号景治は安南玄宗の紀年にて(西暦1663改元)其8年は正に我が寛文10年に当たれり」とあり、鐘の大きさ、重さ、仕様詳細と、それと「交趾松本寺」の場所も明確に記されてます。ネット検索しましたら、『額字 「松本寺(しょうほんじ)』というものが、現在は『九州国立博物館』に収蔵されているそうです。この博物館の説明に、
 「江戸時代初期の朱印船貿易家・角屋七郎兵衛(1610-1672)」が、ベトナム・ホイアンに建立した黄檗(おうばく)宗寺院「松本寺」の額字。…寛文10年(1670)にはホイアンに「松本寺」を建立し、同年に寺号の扁額と梵鐘の調達を松坂の角屋本家に依頼した。この時に揮毫された額字が本作品」
 とあり、七郎兵衛から送られて来た書信を元に日本の本家親戚が注文した額字が今も九州国立博物館に所蔵されている、、という流れかと思います。
 
 「…是等の書状は何れも寛文11年11月の発信にて七郎兵衛はこの年7月より病を獲て臥床に呻吟する身となりし…、後世の為めには独力一堂宇を造立して日本同胞の為めに安心立命の基礎を樹て、」
 とありますので、これは是非とも日本政府で大々的に取り上げて欲しいですね。。。折角今頃日本の若者がベトナム中部に旅行しても、こんなに立派な史実が残る歴史的寺院跡(多分何も残っていないかもですけど。。)を素通りとか、これら話を全然知らないとか、、勿体ないですよね。。。
 来年は『日越交流50周年』だそうなんですケド。。(笑)😂😂

 寛文12年(1672)正月9日、安南(ベトナム)で63歳でお亡くなりになった角屋七郎兵衛栄吉氏には、安南(ベトナム)の妻子がありました。
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 「…而も其の寡婦阮氏は元、安南貴族の出なるが故に東洋流の庭訓流石に正しく、且つ婦徳を兼ねたる賢夫人なりしかば、一世の快男児七郎兵衛に嫁するや夫に仕えては全幅の誠と愛を捧げ、家に在りては内助の功に痩身の努力を惜しまず、加うるに生家の声望は七郎兵衛が住く所に実を結びて角屋の成功を助け、素より琴瑟相和して一子順官を挙げ、人生幸福の象徴たりしも、」

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 奥様は阮(グエン)性の貴族出身の人で、子供が一人いました。子の名は順官(トゥァン・クアン、Thuận Quan)。しかし、「角屋七郎兵衛の安南に於ける嗣子順官に就ては史を徴すべきものなく」という様に、殆ど手がかりがないようですが、ベトナム人の奥様はどんな人だったのでしょうか?
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 「…今一朝にして夫に別る。心既に決する處あるも暫く後事を処理して惑わず、即ち亡夫の遺言に遵い、家産を悉く愛子順官に譲りて家業を徐ろに整理し、事成るや身は落髪して曾て夫の建立せる松本寺に遁世し、日夕七郎兵衛の菩提を弔う男兒も及ばざる覚悟と云うべき、」

 「…阮氏は同文同種と云えども元之れ他国の人、今此の書信を見るに邦人と何等異らざる、否寧ろ女性として一種の親しみあり、而も筆蹟も又七郎兵衛に酷似せる仮名交じり文章にて用件に就いては多く筆を費やさずして要領悉くを得、七郎兵衛が平素の薫陶もさることながら、阮氏又尋常の婦人にあらざるを知る、」

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 貴族家の出ですと、当時儒語(漢語)は当然教養として身に着けていた筈です。そういえば、ベトナム国の皇子クオン・デ候の揮毫も物凄い達筆でした。

 奥様は、七郎兵衛氏亡き後、財産、家業を整理して嗣子に譲り、自分は剃髪して夫の建立した松本寺に遁世しました。
 朝に夕に亡夫の菩提を弔う生活に入りましたが、後に夫を追って殉死したそうです。。。 
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 「…此の年(延實元年)10月15日亡夫の後を逐いて敗果なく松本寺の一堂に散り果てぬこそ惜しむべし、さもあらばあれ、一家の処理を終わり墓塔の工成就を告げ、余年を亡夫の菩提に送らんと発願し、松本寺に入りたる日は未だ浅くと雖も後事悉く終わりて凌駕として去りたる彼女の如き寔に大丈夫七郎兵衛の名をして恥ずかしめざるものと云うべし」

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 このような立派な話が、いつの日か、日本政府主導の『日越交流史』のトップを飾って欲しいと私は切に願っています。。。。😌😌😌
 でも、無理かな~。昔日の日越間の『このテの話』は、近年殆どほったらかし。。。😅😅 何か理由でもあるのかな??(笑)

 
 

 


 
 

 
 


 

 
 
 
 

 

 
  
 
 

 

 

 

 
 

 

 
 
 
 

 

 
 
 

 

        

 
 
  


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