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江戸時代の外国漂流記に見る、阮(グエン)朝頃のベトナム その①「安南国漂流物語」

 「殊に豊太閤(=豊臣秀吉のこと)の大陸進出に刺激された日本の冒険商人達は、徳川幕府の鎖国迄の間には、スマトラ海峡の以東あらゆる方面に往来し、シャム(=タイ)、安南(=ベトナム)、カムボジャ(=カンボジア)、ルスン(=フィリピン)、ジャワ、ボルネオ(=インドネシア等)等を通商区域とし、随所に居留地を設定していたのである。」
           松岡洋右著『興亜の大業』より

 戦後の日本の政治・外交しか知らない私達にとって、徳川時代の鎖国前までの日本人商人のグローバル貿易の姿は、ちょっと想像がつきにくいですね。けれど実際は、この⇧様に、当時は多くの日本人商人が、広い大舩原を自由自在に飛び廻っていたことは本当の話です。

 「それらの人々の内には最も有名な山田長政を初めとして、角倉了以、同與一、呂宗助左衛門、荒木宗太郎、茶屋四郎次郎、末吉孫左衛門、西村太郎右衛門、天竺徳兵衛、角屋七郎兵衛、、、」等々、まだまだ沢山の破天荒な貿易人のお名前が挙げられています。。
 例えば、上⇧の伊勢の松坂商人「角屋七郎兵衛」に関して纏めた冊子「安南貿易家角屋七郎兵衛」(昭和4年)の中の文章に、
 「四面繞らすに海を以てせる我国が、古代既に海上権と海運の発達に素因ありたることは史を繙くものの通ずる所にして、云々、、」
 と、日本の海上貿易の先進性を誇り、豊臣秀吉より『朱印』免状を与えられ『安南(あんなん)貿易家』の一家として、元和の頃にその興隆を極めていた、、、と言います。そして、それが阻害された因が、御存知、江戸幕府の「鎖国政策」でした。

 「寛永13年5月19日,同16年7月5日前後2回の発令によって絶対に邦人の海外渡航と外国居住邦人の帰国を厳禁し、同時に外国人の本邦に向かっての渡航と居住を拒絶し完全なる鎖国政策を施し、云々、、、」

 この頃の背景には、「切支丹(キリシタン)宗門の布教は絶対に国家に不利を招くもの」として、「不幸にして寛永13年、徳川幕府の発した鎖国令は、さしも盛大を極めた邦人の海外発展の気勢を頓挫せしめ、折角築き上げた彼等の商権を、水泡の如くはかなく消え去らしめた」のでした。
 
それでも、
 「徳川の3百年の鎖国政策の結果は、決して悪弊を残すのみであったとは謂われない。(中略)3百年に亘る大平のお蔭で、庶民階級にも漸く学問が普及し、心学一派の社会教育運動等も盛んに行われたので、それらが相俟って、豪壮雄大ではあったが、戦国時代の余弊を受けて、ともすれば粗暴、放縦に流れた前代に比べると、殆ど見違える迄に国民の一般教育を高めたのである。」           『興亜の大業』より

 まあ、当時時代背景は、ざっとこんな感じ⇧だったようです。
 そして、今日は掲題の「江戸時代に書かれた安南(あんなん=ベトナム)漂流奇談」についてです。

 現代の日本ですと、ベトナムビジネスに長年携わる人、配偶者がベトナム人の人等でも、江戸時代の日越交流史に関心のある人は殆どいないようです。。(さみしいですね、、😅💦💦)
 今読んでも、とても面白くワクワクする冒険奇談(「そんな変な人はお母さんくらいだよ、、」←我が家のJK娘の声😅)が、今日迄きちんと我が国に残されていますので、是非ご紹介したいと思います。

 実は私も、「江戸時代の安南漂流奇談」関連書物の存在は、戦前の書籍を通して知ってはいたんですが(宜しければこちらをご参照下さい。→徳川時代までの日越交流史|何祐子|note )、中々手を伸ばすきっかけと時間がありませんでした。けれどある日、本の翻訳のことでやり取りしていた折、クオン・デ候のご子孫家族会のLiên Quốc(リエン・クオック)氏から、『南瓢記(なんぴょうき)』(本の詳細は後述します)の内容に関して質問を受けたことで、重い腰を上げ少し詳しく調べてみる事にしました。
 早速ネットで検索しましたら、、、有るんですねぇ、、やはり。明治33年博文館発行の「石川研堂校訂 漂流記奇談全集」をいう古書が3日で届きました。。本当に便利になりましたよね。古書ファンの中年主婦にとっては嬉しい限りです。😊😊😊

 明治時代の博文館版「校訂 漂流記奇談全集」の端書きで、編者の石川研堂氏はこう述べています。
 「海外より、漂民の送り届けられる者ある時は、長崎奉行之を受け取り、煩些の口書きを徴してのち、その領主に引き渡すを例として、今日に存する漂流談は、この時、長崎奉行と領主とにて取り糺せる口書きを多しとす、或いはまた、その藩儒が、藩主の命によって漂民の語る所を集録し、一書を成したるも多し、」
 
 
と、このように、寛永13年以後は徹底した鎖国政策を敷きましたので、船が遭難・漂流し、運よく生き延びて帰国した水夫たちは、まず長崎奉行に留め置かれました。長崎では、「 御役所へ呼び出し蒙り、踏絵を仰せつけられ、漂流の次第一通り御詮議の上で、揚屋へ上げられ、また御詮議が続く、、云々」 と、「安南国漂流物語」(本の詳細は後述します)に書かれていますので、現代で言えば、「入国審査の口述証書」というものに当るのかと思います。。💦💦

 先に説明しましたように、「クオン・デ候のご子孫家族会のLiên Quốc(リエン・クオック)氏から、『南瓢記(なんぴょうき)』の内容に関して質問を受けた」のが詳しく調べるきっかけになった訳ですが、ネット検索して判ったことは、意外にベトナムの史学会では、日本の徳川時代の「安南漂流記もの」著作は、「阮王朝時代を知る貴重な史料」の一つだと捉えられて来ているようです。最近でも2021年1月に研究本→、Sách - Nam Biều Ký - An Nam qua du ký của thủy thủ Nhật Bản cuối thế kỷ XVIII - Lý Luận Chính Trị Tác giả Shihōken Seishi | SachMoiNhat.com が出版されてました。
 
 しかし、ベトナムではこの、枝芳軒静之(しほうけんせいし=銭屋長兵衛)著の「南漂(瓢)記(なんぴょうき)」のみが知られているようでして、そしてどうも、著者の枝芳軒静之(しほうけんせいし=銭屋長兵衛)が漂流者の水夫とごっちゃになっている様です。日本語からの翻訳資料が少ないことが原因かなと思いましたが、どうも根本理由は、BEFEO(=フランス領インドシナ時代の1898年に、サイゴンに開設された東洋学研究機関「極東学院(Ecole Francaise d‘Extreme-Orient  )」のこと)が、1933年に発行した研究誌に、この枝芳軒静之著「南漂記(なんぴょうき)」が翻訳され紹介されていたらしく、ベトナムではそれを今までずっと引用していることが原因のようです。
 
 ですので、暇人の主婦の私が(笑)😅、ここで明らかにしたいと思います。!!!!!!
 上述の明治時代の博文館版「校訂 漂流記奇談全集」に、安南の漂流奇談物は、全部で3話掲載されています。
 1,「安南国漂流記」(明和2年(1765)に常州多賀郡の12反帆船、姫宮丸、下総銚子浦を出て沖合で遭難)
 2,「奥人安南国漂流記」(明和2年(1765)に奥州磐前郡の12端帆船、住吉丸、小名濱出航後夜半に遭難)
 3,「南漂(瓢)記」(寛政6年(1794)に奥州名取郡の25反帆船、大乗丸、房州沖で遭難)

 各々、長崎に帰朝してからのお取り調べ=入国審査時に取られた供述書、それが『漂流奇談』として編集され、『奇談物』としてお江戸庶民の間に出回ったんですね。しかし、こういった書物が数百年後の現代でも、数日で郵便で手元に届き読めるという素晴らしい社会環境に、改めて自分の祖国ながら「日本って凄いな。。。」としみじみ思わずにはいられません。。。

 まず、1の「安南国漂流記」ですが、こちらのサイト→安南国漂流記 解説 (em-net.ne.jp)に、全文訳が出ていました。。もしご興味のある方は拝見なさって見て下さい。ここで紹介されている様に、
 「この漂流記は帰還した姫宮丸乗組員を長崎迄引取りに来た水戸藩役人〔長久保赤水〕が漂流民の話しを聞いて書いたもので、前半は漂流の経緯及び安南国(ベトナム)での生活及び帰国の経緯、後半は彼らが安南国で見聞した風習、衣食住、物産、文化など興味有る話題」が盛り沢山。現代ベトナムにまだ残っている文化風習も多く散見出来て、1990年代のベトナムを知る私にとりましては、とても懐かしく郷愁を覚える風景です。特にその部分と、安南の海岸に漂着してからの様子をご紹介したいと思います。

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「安南国漂流記」


 「常州多賀郡磯原村(現在の茨城県)の船頭左源太(別本に左平太)宗旨は禅宗にて年亥の35歳、同水主友七、禅宗49歳、庄兵衛、禅宗41歳、吉四郎、法華宗38歳、善左衛門死亡、十三郎死亡」

 「難風により安南国へ漂着、今年(明和4年)の南京4番船が安南国へ商売に渡航した便船に乗せてもらい、安南より直接長崎へ当7月16日に着船。 即日長崎奉行所で宗門調査の踏絵を命じられ、漂流の次第を一通り調べられた後揚屋へ留め置かれました。其の後に更に取り調べがあり、詳細を報告しました事次の通り。」
 2年後に運よく長崎に生還した乗組員たちは、暴風に遭い遭難した日の状況から、安南国の海岸に漂着した事を事細かく役人へ詳細を語ったのでした。
  
 「12月23日の夜前、足枷を外して2,3丁程内陸の空家に連れて行かれそこで食事しました。その後別の役人らしき家へ引出され、色々話がありましたが少しも通じません。又空家へ帰り縄で片足を縛られて居りましたが25日には縄も解かれ、そこで越年しました。安南国マイニチ浜と云う所です。正月の様子は葉竹一本づつ門に立てて祝い、余り変った事もありません。」
 安南の「マイニチ浜」(←どこですかね?😅)に漂着した一行は、初め足枷を嵌められます。そのうち危険はないと見て取られたのでしょう、縄も外されてなんとか自由に動けるようになったようです。ここで正月を迎えますが、当時のベトナムの旧正月(=Tết(テト))は、今よりずっと質素だったようです。今は花市あり花火ありで結構派手ですが。。。😅

 「翌年2月になると南京のコククワンサンと云う者が日本語で話しかけて来たので私達も興味を持ち、日本へ帰る便が無いものか尋ねました。彼は簡単な事だと言い、我々を役人の所へ連れて行き役人と話をして帰りました。長崎へ渡る事ができるのかと尋ねると簡単だと言うだけで何処かへ行きました。」
 なんと!支那人商人に出会い、船に乗せて貰えて日本の長崎に帰れそうだと判ります。本当に嬉しかったでしょうね。「コククワンサン」、、、どうやっても当て字が出て来ませんが。。。中国語が解る方ならわかるかも。
 明和3年3月に、「コククワンサン」の船に乗せて貰い、付近では最も栄えていた貿易港町の会安(ホイアン)に到着し6月迄滞留します。ここで興味深いのは、同時期に遭難し漂着していた「奥州岩前郡小名浜の者」3人と合流した事です。⇩
 「この辺に漂着しているとの情報を役人から聞き、私等3人が行って面会しました。彼等は船も失っているので私達の船へ同道して一緒に住みました。」 
  
これは、→「奥人安南国漂流記」で、その②で詳述します。

 ここで皆で頑張って帰国の日を待っていたのですが、残念ながら、善右衛門さんが病気に罹り7月に死亡。十三郎さんも病気で9月に死亡しました。日本の地を踏みたかったでしょう。無念だったと思います。。。
 一行は、ホイアンで再び越年しました。そして、翌年2月に「南京船」が着岸します。
 「南京船」の船長「トンタイクンシ」そして、「並びタイフウサンやユウホクアン等は皆情け深い人々で親切にしてくれました。中でもトンタイクンシは親方の様で年頃は60余の高潔な紳士でした。」
 親切な支那人の船に乗せてもらうことが出来、一行は漸く「6月20日に出帆」したのでした。「安南から長崎迄昼夜休まずに北北東に走り、日数27日で到着」。この道程は860里だったそうです。

 そうして、やっと念願の日本の地、長崎に帰還した一行の「入国供述書」「安南国漂流物語」には、ホイアンを出る時に現地で貰った沢山のお土産のリストの次項に、「安南逗留中見聞雑談」として当時の安南(=ベトナム)の人々、風俗、文化、習慣、言語などの様子詳細を伝えています。

 この「安南逗留中見聞雑談」項は、その②江戸時代の外国漂流記に見る、阮(グエン)王朝期のベトナム その②「安南国漂流物語」と「奥人安南国漂流記」|何祐子|noteに続けたいと思います。
           
 

 
 


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