徳川時代までの日越交流史

 仏領インドシナ史からちょっと離れて、それ以前の日越関係はどうだったのか、引き続き『地理教育 佛領印度支那研究号』から見て行きたいと思います。***************

仏印と日本との史的関係

 一体支那の南方、即ち印度支那や、南洋方面の広獏たる地域の中では、この仏印の所が太古から最も日本との関係が深く、特に江戸時代の初期には、邦人のその地方に行ったものが頗る多かった
 石器時代の日本と大陸との関係は、朝鮮や満州、次に勿論支那、又今の仏印地方からも若干の人々が稲を持って北九州に移り来り、吾等の祖先の一部をなしたといわれている。特にわが雄略天皇の御代などには、支那の南朝と相当に往来してその文物を輸入していた。     

 奈良時代になると、有名な阿部仲麻呂が安南に漂着した話もあるが、それよりも少し早く、平群廣成が同地に漂流した事実がある。「続日本記」の聖武記天平4年5年及び同11年の条に、平群廣成は天平5年(皇紀1393年)に遣唐大使多治比眞人廣成、副使中臣朝臣名代等の下に判官として渡唐し、同6年出国帰国の途上に難船して林邑(現在の安南地方)に流れ着いたとある。
 次に阿倍仲麻呂は、元正天皇の養老元年(皇紀1377年)に16歳で吉備真備等と共に唐への留学を命ぜられ、在留36年を経て、遣唐使藤原清河の帰国の際に共に船に乗るが、この船が途上で暴風に遭い、今の安南北部のゲアン附近に漂着。土民の殺害から逃れ、辛苦して唐に帰還した。

 唐の次の宋代は、我が平安半期から鎌倉時代の初に当り、その頃日宋間の私的交通は頻繁に行われたので、邦人の船の安南に漂到したものも若干あったに相違ない。倭寇の猖獗を極めた明の嘉靖年間(日本は戦国時代)の寇徒は、実は明人が大半を占めていたのであるが、それでも少数の邦人が参加していたことは否定されない事実である。彼等は海南島などには屢々行ったから、更に安南に赴く位は格別の難事ではない。彼等の一派に支那人李馬鴻を首領となし、副将シラコ(邦人庄五?)以下兵士水夫計4千人、女子千5百人、その他工匠若干を62艘の艦隊に乗組ましめ、天正2年にフィリピンを襲い、スペイン人と戦って敗北したことがあり、同十年にも日本人タイフサなるものが26艘の船を率い、同様に赴き攻めて失敗したことがある。

 愈愈日本と安南との直接の国交を語る順序となったが、豊臣秀吉が朱印状を与え海外貿易を奨励していたと云われ、天正末年及び文禄の頃は、邦船が屡々交趾やルソンに渡航していたことは、「長崎志」や明人張變の「東西洋考」に見えている。

 今の仏印と日本との正式の国交は、我が徳川家康と安南の現王朝の祖阮潢(グエン・ホアン)との往復文書に始まり、「外蕃通書」巻11安南国書の部に、安南国都元帥瑞国(端国)公上書として、その国の弘定2年(我国の慶長2年)の年号を記せるものある。阮潢は、安南の黎朝を簒った鄭檢の妻の弟で、名家の出であり、中部安南のフエに居り附近を領有して広南国を立て、子孫から太祖嘉裕帝と追尊されている人である。その文書には、わが長崎より安南に赴いたが商船が難破したので、その乗員を送り還す旨と、以後日安は兄弟の国として互に親交を続けんとすることと認め、奇南香、白熟絹、白蜜等を贈ると書いている。これに対し家康は同年直に一書を遣わし、その好意を謝し、且つ朱印状を携帯せる邦船には貿易を許可してもらいたいと要求している。同書巻11―15には、この外にも右の両人の往復文書、及び安南国王より長崎の木村宗太郎へ同書清都王より角蔵へ、同国華郡公より嶋田政之へ、同国都統官より茶屋四郎次郎へ、同国大都統より中島へ、同国派郡公より助次右衛門への遺書を載せている。
 阮潢は広南を治めていた時に、領内のホイアン即ちファイホとツーラン(ダナン)とに日本人町を創設したので、邦人はそこに商館を建てて安住し、彼我の貿易が大に進展した。また木村宗太郎は秀忠の御朱印状を持ち広南に往復していた間に、大にその国主の信任を得、遂にその女を娶り、阮性を冒すことをも許された

 広南の領主阮氏と我が江戸時代初期の邦人との間には、極めて密接な関係があったが、寛永13年に幕府がわが国人及び商船の海外渡航を禁じ、南蛮人の胤子を追放し、翌年に島原の乱が起こり、同16年更に蘭人、支那人以外の外国貿易を厳禁してからは、安南との通商も全く頓挫した。寛永13年から丁度40年後の延寶4年、安南在留の谷村四郎兵衛が伊勢松坂の角屋七郎次郎に宛てた書簡には、「爰元も日本仁皆々相果て、只二人に罷成、、、」と云える惨憺たる有様となったのである。

 その後、江戸時代の中期なる吉宗時代の享保13年(皇紀2388年)には、広南の象が2頭日本に連れ来られ、一頭は長崎で死んで残る一頭が京都で中御門天皇の叡覧に入り、更に江戸に引き行かれ、到る所で時人の感興を惹いたのであった。

 それから邦人が安南に漂流した記録は、「漂流基壇全集」の中に3つある。第一の「安南国漂流物語」には、常州多賀郡磯原村の船頭左源太等六人が明和2年安南のホイアン付近に漂着。第二は「奥州人安南国漂流記」の奥州磐前郡小名浜村沖船頭善四郎等4名がやはり明和2年ホイアンに漂着。第三「南瓢記」には、寛永6年奥州名取郡の彦十郎等16人が乗った大乗丸が房州沖で遭難し安南に漂着、安南国王に拝謁したとある。この安南国王は、名高い嘉隆帝阮福暎(ザーロン帝グエン・フック・アイン)なるに相違なく、その都城サイゴンの模様も書いてある。

 遥に降って明治大正の時代になると、安南土人の独立運動につき少し日本との関係がある。即ち明治17、8年の頃、フランスの圧制や搾取の猛烈であったのと共に、土民の反抗運動は容易に根絶が出来なかった。而もその反抗は、仏国の勢力範囲と定まった時から、安南国王及びその摂政阮文説(グエン・バン・トゥェット)を中心として起こされ、数年後国王が仏軍の捕虜となり、摂政が支那に出奔してから後も、日清戦争の頃まで継続し、それが一旦鎮圧されてもまだ一部に脈を引いて続いていた。殊に儒者潘是漢(=潘佩珠 ファン・ボイ・チャウのこと)は、安南現王朝の始祖嘉隆帝の嫡子畿外候クオン・デを擁立して党首となし、日露戦役中、我が国の勝利に憧れて日本に来り、その進歩の著しきに驚嘆し、国民の教化を向上し、日本の指導の下に独立を完くせんとして帰国勧奨した。そこで、決死の覚悟で安南を脱出し、日本に留学する者続出し、畿外候も来遊して明治40年頃には在留の安南志士百余名に及んだ。

 しかし、仏国政府は日本に交渉して党首の引き渡しと留日学生団の解散とを求め、我が国でも彼等に大に同情しながら、妄りに仏国の感情を刺激するを好まず、仏国に向かい安南施政の改善と留日者の寛大なる取り扱いとを勧告その要求に応ずることとなった。依って彼等は悲憤の涙を憚って思い思いに日本を去ったが、事実上の党首潘是漢は、大正初年に広東で胡漢民等の保護を受け、大正末年上海で仏国官憲に逮捕せられ、安南に護送されて既に死刑とならんとした直前、国民多数の助命の嘆願書が続々仏印総督に送られたので、遂に国都フエの附近に軟禁の身となったのである。

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