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江戸時代の外国漂流記に見る、阮(グエン)朝頃のベトナム その②「安南国漂流物語」と「奥人安南国漂流記」

 その①→ 江戸時代の外国漂流記に見る、阮(グエン)王朝期のベトナム その①「安南国漂流物語」|何祐子|note からの続き、「安南国漂流物語」「安南逗留中見聞雑談」項の一部をご紹介します。今から250年以上前のベトナムの生活・文化は、江戸時代の日本人にどのように映ったのでしょうか。。。

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 「私達がはじめに漂流した毎日(マイニチ)浜は、家の数は5,60件位、みな草葺で内側に土間がある。寝床は床の上へ茣蓙を敷いて寝る。戸は革へ押しぶちを当てて、廻し戸にしている。引き戸は無い。」
 「 食事はしっぽく(卓袱)と云って、直系二尺の丸い膳に大きな瀬戸物皿へ汁や菜を盛り3、4つ並べて、3,4人づつ集って匙や箸ですくい上げて寄り合って食べる。但し、飯は各々茶碗一盛り、一人で食べる。」
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卓袱(しっぽく)は、日本ではしっぽく蕎麦、しっぽくうどんや長崎の卓袱料理などがありますね。ベトナムの都会では最近あまり見かけなくなりましたが、今でも私の主人(ベトナム南部出身)の親戚法事で田舎へ行くと、法事後に皆で御座の上に座って車座になって膳を囲んで食べます。和気あいあいとしておしゃべりが弾み、本当に楽しいひとときです。

「菜は魚類、或いは、豚、鶏、あひる等を常食してる。」
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これは、今でも全然変わらないですよね。。。魚の煮物(Cá Kho)や、豚の角煮( Thịt Kho)等、本当にご飯に合う味付けでお箸が止まりません。。

「男女共、油を付けて逆さまに指して巻髪にしている。木綿又は絹の被り物で頭を包む。男女共に同じ衣類を用い、指金を嵌めている。但し女は耳へ金を下げているので、男女の区別がつく。ホイアンで5歳位の女の子が耳金(=ピアス)を掛けているのを見たが、釘の様な物で耳たぶに穴を通し血留めの粉薬を付け穴へこよりを入れている。痛くないのか、泣きも驚きもしてなかった。」
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最近は都会では殆ど見かけなくなりましたが、私がベトナムに住み始めた1990年代頃のホーチミン市内で、お母さんに連れられた3,4歳の女の子の耳に紙縒りのような血が滲んだ糸のような物が通されているのを頻繁に見かけました。耳たぶに空けたピアス用の穴がふさがらないようにしてたのですが、初めて見た時はカルチャーショックでした。。。

 「男女共に生れつき日本人の様に色が白く人品も良くて、中でも女は綺麗で化粧もしていない。」
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江戸時代の日本人にも、やっぱりベトナム人女性は綺麗だと評されてたんですね。今でも、ベトナム女性は目鼻立ちが整っていて、スタイルもいいですよね。グエン朝の開祖、嘉隆(ザーロン)帝は、フランス人が書き遺した文献中に、「ザーロン帝は人品が良く、肌の色が白い。子供達も同様に色が白い。」と書かれていることが多いです。

 「安南の人は貴賤関係無く皆一様に、「らま」いう木の実と、「ほい」という白粉=牡蠣灰を「カブ」という木の葉で包んで、普段から腰の巾着へ入れて置いて、時々喰べる。赤い汁が出て唇が染まり、歯は黒くなる。私達も味見したが、少し渋くて口中が爽やかになる。この国では、客餐の御馳走にも必ずこれを用いる。」
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これは噛み煙草のことで、ベトナム語では「Ăn trầu」などと言いますね。日本以外のアジア地域に昔からある、「キンマ」という胡椒科の葉(=Lá trầu)に、刻んだビンロウ(檳榔)の実(=Trái cau)と石灰(=Vôi)を包んで噛む習慣のこと。私のベトナムの義母も昔たまに使ってました。口の中が真っ赤で血を吐いているみたいになります😅。。。⇧の「らま」の「ら」は「Lá(ラ)=葉」、「カブ」は多分「 cau(カウ)=檳榔」「ほい」は「Vôi」(=石灰(水酸化カルシウム))のことでしょうね。
  
 「五月五日には生米を笹の葉に包んで煮て、ちまきの様に作る。草餅もあるが、蓬は使わずにからむしの葉で染める。」
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ベトナムの伝統菓子は、大概米粉を加工するんですけど、生米を葉で包んで煮てちまき(=甘くない)様にする、、とは、何となくBánh chưng(バイン・チュン), Bánh Tết(バイン・テト)に似ているような気がします。今のベトナムでは正月の定番料理になっていますけど、もしかして元々は、旧暦5月5日端午節の食べ物だったんでしょうか。。?

 「この日は、船遊びをする習慣があり、小舟に17,8人位乗って舳に龍頭を飾り、艫に旗を立て、櫂を左右に十八梃立てて、はいはいと囃しながら太鼓を鳴らして競う。見物人が多く集まって、非常に賑わう。」
 ⇒ これは香港などでおなじみの「ドラゴンボートレース」、中国の端午節の大イベント『龍舟競争』のことですね。今でもべトナム中部ホイアンの伝統行事のひとつです。

 「安南国では、火を焚く時に硫黄の付け木を使わずに、紙火で吹き付ければ忽ちに火が移る。暖国だから、薪や柴に火が移り易いので付け木が必要ないと見える。我々も、漂着した当初に船道具を割って火を付ける時、付け木が手に入らず困ったことがある。」
 ⇒ 私も、夫の親戚の田舎にお邪魔した時に、家の方が竈に乾燥した藁のような葉っぱを置いて、そこに擦ったマッチをいきなり投げ込んだんですけど、ぼわっと大きい火が出たので驚いた記憶があります。日本の学校のキャンプで習った「火起こし知識」とか全然必要ありませんでした。。。😅いきなり大きい火力が出るので、炊けたご飯はとっても美味しかったです。

 「田を耕やすのは、牛2頭に犂(すき)一丁を引せて鼻取しない。牛は日本の牛より大きく様子が異なる。鋤・鍬・万能等は大抵日本と同じ。」
 「麦・稗は一向に見掛けないが、大豆・小豆・粟・もろこし・菜・大根・芋・茄子・南蛮・夕顔・西瓜、或いは木綿などは日本と同じ。野菜の収穫は一年中途切れることはない。」
 ⇒ この頃のベトナムに麦は無いということは、勿論パン類もないということで、パンはフランス人が入って来て以降ですが、小麦麺・うどんも無かったんでしょうね。そして、今でもベトナムの市場では、特に葉物野菜の種類が日本に比べて非常に多いように思います。

 「12月の寒中でも安南国は温かく、日本の5,6月の様。稲葉もそよいで勢いよく成長する。田畑は一作目収穫した後は休ませて、代わる代わる植付する。田作が多く、田んぼがとても多い国。」
 「米の値段は日本の升で一升が南京銭で12、3文。酒は24文位。酒の味は、日本の煎り酒よりも辛く香気が鼻を通す酒で、私達は全く呑む事ができなかった。」
 ⇒ これは、Lứa mới(ルア・モイ)などに代表される、ベトナム焼酎のことでしょうか? 確かに独特の匂いがありますが、ベトナム駐在の長い日本人には、今では結構好まれているようです。。

 「安南国で買い付けた産物は、砂糖胡椒・牛角牛皮・象牙・鮫薬種の類いと、その外に孔雀四十羽・オウム四羽、烏の様な鳥・猫の様な尾の長い獣物など。生きた象も見たが、牙は小さかった。けれど、抜き取り売られている物(象牙のこと)は、長さが4尺程で廻りは9寸程あった。」
 「私達の乗る予定の船へ砂糖を買い2千俵積み込んだ。その外に17,8艘の南京船が、何れも買って積み込んでいた。砂糖は、安南国の第一の産物だ。」
 ⇒ 安南国の物産は、流石に南国!といったラインナップですね。そして、この当時からベトナムの砂糖は特産の輸出品目として有名だったようです。

 「 安南の去年の暦をもらったが、国号と年号は南京とは違う。当該の安南の閏月は日本と同じ9月。南京の閏月が7月だから、大清国とは別王の治める別国だと言える。」
 ⇒ 実に興味深い記述です。。。。これは⇧、実は非常に面白い研究テーマなんですよ、、、💦💦 

    「ホイアンでは、夏頃に若者らと力試しをやった。腕相撲が気に入ったみたいで、少し押すと、これが思いのほか弱い。両手をこう掛けて押すんだとやって見せると、忽ちに押し付けられた。又、彼等は皆相撲が好きなので、取って見ると、是また思いのほか弱くて、全勝してしまった。すると、大男が一人前に出て来たので、こちらからは庄兵衛が出て取り組み合った。2、3度突いてきたが、何だこんなものと手を大きく広げて待ち構えたら、4つにむんずと組んで押し付けて来るばかりで、技というものがない。庄兵衛が「大腰」という技で小気味良く投げ出すと、倒された大男は起き上がりもせずに残念がって、こちらの顔を暫く見ていた。見物の者どもも驚いた様子で、ああ!と言いながら手を左右に振って、もう取るな、と言う様な素振りをして、その後は力比べをしたがらなくなった。」
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江戸時代ですから、多分日本では民間でも相撲が盛んでしたでしょうから、この時は日本人の圧勝だったようです。しかし、こういった当時の記述から、言葉の壁など関係無く、日越両国人が楽しそうに交流している様子が伝わって来て嬉しいです。
 
 「ホイアンの港は、正月頃から南京船17,8艘、その他にも諸外国の船が7月末迄逗留して商品の仕入れを行う。南京人だけでも千2,3百人位滞在するので、年の前半は町中大変賑やかで、市場の様に押し合いながら通る。」
 
 ⇒ この『中部の港町、會安(ホイアン)』とは、
 「御朱印時代に発展した旧日本人町の跡に、日本橋が残る。石碑に日本人がこれを造ったことを伝え、アンナン国王がこれに「来遠橋」の名を与えたことが記してある。また郊外には、日本平戸の谷彌治郎兵衛と、日本文賢具足君の二人の墓が残っている。」    
        
『ヴェトナム亡国史 他』の『獄中記 注』より

 このように、当時非常に栄えていた貿易港町だった様でして、陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏(こちら→ 陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏『越南史略(Việt Nam Sử Lược)』の序文をご紹介します。|何祐子|note )の歴史書『越南史略』には、こんな風に書かれています。⇩
 「(西洋商人は)既に支那商人やオランダ商人の商館が立ち並ぶ大変賑やかな港町、広南地方のホイアン(會安)に商館を開いた。」
 ベトナム南北朝時代(黎皇朝下の鄭(チン)氏と阮(グエン)氏)、北部領主鄭氏の施政下で、「日本人商館や支那人商館、シャム(=タイ)人商館が2000棟以上も連なる非常に栄えた港町」と記された「舗憲(フォヒン)」に並ぶ、大きな貿易港町だったようです。

 「田畑は肥沃で肥やし等も使わないと見えて厠や小便所もなく、貴賎男女共に大小便を勝手に平地にするので道端の悪臭が酷い。」
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ちょっとこれは、、、💦💦と、載せるのを戸惑いましたが、併せて私の子供の頃の話をしてみたいと思います。
 まだ日本の小学生だった40年前位、小学校の通学路で通る畑の脇に必ず『肥し』が積んでありました。肥しは『肥溜め』から運んで来てましたが、この肥しは実に良質の有機系肥料らしいです。昔の日本はリサイクルが進んでいたんだなぁ。。。と気が付きます。昨今は私の娘も日本の高校授業でSDGsとか勉強してますけど、学校で『肥し』と『肥溜め』の話は出ないといいます。近年盛んに世界的肥料不足による食糧危機を煽る話ばかり耳目にしますが、あれ、、、肥料は私達の身体から無限に出て来るので心配いらない?😅😅😅 とか、思ってしまうんですが。逆に、肥料として使わないと、⇧の様に、『道端の悪臭が酷い』というような『環境破壊』が起こるんですから。。。
 肥料不足を解消して食料危機を防ぎ、環境を保護。正に一石二鳥の『肥溜め』の『肥し』。。。この日本の技術😅を復活させることが、世界食糧危機を救う?かも?💦💦

 「安南国漂流物語」の最後は、約2年間のベトナム滞在で覚えた安南語(ベトナム語)の日本語表記で〆られていますので、一部をご紹介します。
 現代の私達が使うベトナム語でも理解できる言葉が多く発見できるので、とても親近感が湧きます。(判る範囲で、現代のアルファベット化文字を入れ込んでみました。😊)

「安南言葉(あんなんことば)、
一(モツ)
Một、二(ハイ)Hai、三(ハア)Ba、四(ホン)Bốn、五(ナム)Nam、六(サホ)Sáu、七(バイ)Bảy、八(タム)Tám、九(クン)Cửu、十(モイ)Mười、百(モツテン)Một trăm、千(モツチヨク)Một chục?  、日(ライ)Ngày、月(タン)Tháng、正月(モツタン)Một Tháng、2月(ハイタン)Hai Tháng、雲(マイ)Mây、風(ヨウ)Gió、山(サン)Sơn 、雨降り(モハ)Mưa hạ、水(スツク)Nước、日本(ニッポン)Nhật Bản、国(クハツ)Quốc、安南国(アンナンクワツ)An Nam Quốc 、父(チャウ)Cha、母(コア)?、子(ゴン)Con、兄(アン)Anh、男(コイロ)?、女(カイ)Gái、死(セツ)Chết、食(アシカム)Ăn cơm、飯(アンネ)Ăn tối ?、酢(セム) Giấm、茶(チマイ)Chè、酒(リヤウ)Rượu、米(ヤウ)Gạo、火(ル)Lửa、葱(ハン) Hành、生姜(ゴン)gừng、大根(カイ)Cải (trắng)、豆腐(トホフ)Đậu hủ、砂糖(ラン)Đường、魚(アア)Cá、猫(マイ)Mèo、鼠(ネオ)Chuột?、カラス(カアア) Quạ、エビ(トン)Tôm、紙(セイ)Giấy、油(チャウ)Dầu、有(ゴウ)、善(トツ)Tốt、悪(シャオ)Xấu 、、、」

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 次は、『奥人安南国漂流記』です。

 『奥人』の『奥』は奥州のこと。江戸時代の陸奥(むつ)国で、現在の福島、宮城、岩手、青森に当ります。その奥州の小名浜から明和2年(1765)11月に出航した住吉丸の船頭善次郎ら六人が、夜の沖合で逆風に遭い遭難してしまいます。漂流して翌年正月にやっと山が見え、上陸した地が安南国(あんなんこく)でした。

 「日本人漂着したると云えども、互いに言葉通じず」と、そうこうしているうちに役人がやって来て、あっちこっち連れられて、なんとか會安(ホイアン)に到着しました。ここで、その①にも書きましたが、同時期に遭難して同じく安南に漂着していた磯原村の庄兵衛達に会えるのです。
 「安南の内のホイアンに到着すると、役人に連れられて役所に行った。すると、先日に異国人が漂着し船住まいをしているという。予て知ったる当州磯原村の左平太庄兵衛友吉七四郎善右衛門十三郎6人が居るとて引き合わされた。彼等の船に計9人で住まわせてもらうことになった。」
 良かったですね~。😊😊😊 漂着した異国で邦人に出会えるなんて。住吉丸の人達も、「知り人とこんなところで出会えるなんて、奇妙なことだ。」と長崎で役人に話したそうです。
 ホイアンで『姫宮丸』の庄兵衛らと合流でき、そして一緒に支那船に乗せてもらえることになり、同じ船で同じ日に長崎に帰朝したため、この『奥人安南国漂流記』は、先の『安南国漂流記』の『付録』のような扱いで3ページのみ、主に長崎帰朝に至った経緯と掛かった費用を供述しています。その中で、
 「旅宿逗留中、丁寧な撫育に預った。能く日本言葉を心得た唐人(支那人)がいて、始終この者に世話になり、お蔭で6月20日にホイアンを出港して7月16日長崎に着船した。」
 と書いてあります。この唐人は、「この度(日本へ)渡って来た林宗徳也」と言っています。帰化人?だったのでしょうか。通名かな。。?
 
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 その③では、枝芳軒静之著「南漂記(なんぴょうき)」を取り上げたいと思います。
 

 


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