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「安南民族運動史」(1) 〜阮(グエン)朝の成立頃〜 (再)

 大岩誠氏の『安南民族運動史概説』という昭和16年発行の本があります。文章が簡潔明瞭で読み易いのに内容が濃く、私は大変大変勉強になりました。大岩誠氏。一体どんな方なのか、、と思い調べてみましたら、京都帝大卒業で満鉄調査局等にもお勤めでした。戦前にモンテスキューやマキアヴェッリの数々の邦訳もされた凄い方でした。大体戦前の本は、桁違いで凄いレベルの高いものが多いですが、文章から『ベトナム愛』が感じられる内容でしたので、ちょっと不思議に感じていましたが、大岩誠氏の序文のこんな記述から、理由が判りました。

 「私が越南の民族運動に多大の関心を持ったのは昭和6年前後、私がパリに留学していた当時のことである。恰も当時は昭和5年の安沛(エン・バイ)事件に引き続く大小の独立運動によって、越南の全土は元よりフランス本国殊にパリにおいても、様々な国体が種々な見地から、此の惨澹たる植民地の運動に刺激されて活発な運動を展開していた。或る機縁から、私は越南の若い志士たちと知り合い、彼等の生活を知り其の解放自立の活動を助けて共に戦った。」               『越南運動民族運動史概説』より

 大岩誠氏は、フランス留学中に現地のベトナム人と知己を得て、日本帰国後、ベトナム民族運動に想いを馳せながらも仕事に忙殺されてその研究の自由を得られなかったが、思いがけず昭和15年頃からベトナムに関しての調査研究に専念する幸運に恵まれた、と書いています。おこがましいですが、ベトナムに興味を持った環境が似ていて、親近感を持ちました。😊

 『安南民族運動史概説』には、ベトナム略史が載っています。建国から歴代王朝全て簡潔明瞭に網羅してあり、非常に分かり易く纏まっています。その中から、阮(グエン)王朝時代、ベトナム古代史、抗仏闘争史、パリでのベトナム共産党の活動など、順不同で数回に分けてご紹介したいと思います。
 その(1)は、第一章『越南の人と国と歴史』の中の阮王朝設立の直前の頃です。

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「…国家の存続を保ち得ていた越南国も、14世紀以来ヨーロッパ諸国が東侵の行動を起こし、相競ってアジアの蕃食に功を争う時代に入るや、忽ち南支を狙うフランスの餌食となった。順序として極めて簡単にフランスの侵略と征服の経過を述べて越南独立の義挙の数々を考えて行こう。

 支那南部侵略に対する前線基地として印度支那半島を選んだフランスは、天主公教の伝道師アレクサンドル・ド・ロード(Alexander de Rhode)らが教権のみならず商業上の権益を確立し、祖国の領土拡張要求に応じるためにこの半島に入って来た。なかでも有名な政僧はアドラン司教ピニオー・ド・ベエーヌ(Pigreau de Behaine, Eveque d’Adrin )であって、彼こそアジア分割元凶の一人である。」

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 この「伝道師アレクサンドル・ド・ロード(Alexander de Rhode)」の名を冠した通りが、現在のホーチミン市1区の一等地にありますね。大教会のすぐ傍の、ベトナム外務省の建物のある通り。ロード師は、「1591年アヴィ二オン生まれで、イエスス会の伝道師」です。でた!イエスス会。。(笑)

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 「彼の此の半島に来た頃、越南国王たる阮福淳(グエン・フック・ニュアン)すなわち武王の政治統制力は漸く衰え、安永3年(1774)には所謂西山(タイ・ソン)党の乱が起こり、王族の一人、阮福暎(グエン・フック・アイン)は難をタイ国に避けたが、この亡命中にド・べエーヌと相識り、その勧めによってフランスの援助を受けて旧王朝の恢復を図った。ド・べエーヌは、人質として福暎の長子景(カイン 当時4歳)を連れてパリに帰り、ルイ16世に謁し、曲折を経て法越攻守同盟を結んだ。
 勿論これは崑崙(こんろん)島
(=コンダオ島)の割譲、その他過大な政治的経済的要求が含まれていたのは当然である。しかも此の条約たるド・べエーヌが阮暎の代表者となったパリで締結したのであるから、全くフランス人同志の馴れ狎合芝居との言うべきもので、恣に他国の権益を割取した強盗行為である。」

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この「ピニオー・ド・べエーヌ」とは、
 「ピエール・ジョセフ・ジョルジュ・ピニョ―・ド・べエーヌ(Pterre Joseph Georges Pigneau de B'ehaine )1741年11月2日生まれ」
 「この役僧は、波瀾重畳なる生涯を送り、宗教的な活動と軍人、外交的な活動とを兼ね行った人だった。ランで修行を始め、パリの外国伝道協会で其の仕上げをやった。30歳にしてアドラン司教に任ぜられ(1771)、3年後にコーチシナ、トンキン、カンボジア駐在の法王代理に任命された。」

          T.E エンニス『インドシナ』より

 福暎の長子景(カイン 当時4歳)皇太子のパリ滞在中に描かれた肖像画がこちらです。 英睿景(カイン)皇太子の肖像画|何祐子|note
 
この滞在中の様子が、T.E エンニス著『インドシナ』に見えます。
  「…若い交趾支那王子は同情の眼で迎えられる。年頃も同じフランスの王子と彼は遊んだ。腰元たちまでが王妃の髪結いとして名の売れたレオナールを呼んで来て、王子の赤絹と金の頭布に真似て髪を結わせた。」

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 「一方、阮暎はその頃、反軍政府たる西山党に内乱が起こったとの報道に決然起って亡命の地タイを出で、所在の旧部将の手兵を加えて天明8年(1788)サイゴンを陥れ、交趾支那(コーチシナ)を奪回し更に中部へ進撃した。
 ここで我々の関心を惹くのは此の阮福暎(グエン・フック・アインは)の反徒討伐戦に日本人が一役買っていることである。それは寛政6年、越南に漂流した船頭の話を近藤重蔵が小説風に述べた『南瓢記』に見える事柄から推知されるのである。十数人の日本漂流民を、阮暎は大に歓待し懇に労わって帰朝させたが、その漂流民の話では彼等の漂着を直ちに材料にし、水軍の軍船に「日本来援」を意味する文字を大書した旗を立て、味方の志気を鼓舞したというのである。当時、阮暎は自国兵を基本部隊として討伐戦を敢行し、苦戦を続けていたので、古来、八幡船で勇名を遍く南支、越南にまで轟かした日本人が義によって来援したと宣伝して味方の将士を励まそうとしたのも十分に肯けることである。」

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 実に面白い史実ですよね、、、😊😊😊
 
この『南瓢記』は、こちらをご参考下さい。江戸時代の外国漂流記に見る、阮(グエン)王朝頃のベトナム その③「南瓢記(なんぴょうき)」|何祐子|note

 この『八幡船』をネットで調べますと、
 「江戸時代の1719年(享保4年)香西成資の『南海治乱記』が「我が國の賊船各八幡宮の幟(のぼり)を立て洋中に出て、西播の市舶を侵し掠めて其の財産を奪う。故に其の賊船を称して八幡船と呼也」
              『日本国語大辞典』より
 『八幡宮』とは、
 「八幡(ヤワタノカミ、ヤハタノカミ)を祭神とする神社」
 「八幡神は、元々海神として航海民である宇佐氏が崇敬した地方神のひとつ」「大分県宇佐市の宇佐神宮が、全国に44,000社ある八幡宮の総本社、第一之殿に祀られる応神天皇すなわち八幡神」
 
ということです。。

 「古来、八幡船で勇名を遍く南支、越南にまで轟かした日本人」だと言いますから、
 「おおー、久々に来てくれたのか?元気か?懐かしいなぁ、その八幡の幟ー!」
とかなんとか、、、日本人の漂着漁民に会った時に、阮王はこんなことを言ったかも!?🤣🤣🤣

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 「一方同志はその翌年漸く5、60名の援軍を組織して到着したので、阮暎は力を得て、享和元年(1801)河内(ハノイ)を恢復し、越南を統一し帝位に上った。これが現在の王朝の祖先で、阮暎は嘉隆帝と号して統治した。」

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大岩誠氏の『安南民族運動史概説』発刊年は、昭和16年(1941)ですので、「現在の王朝」というのは、ベトナム最後の王朝阮(グエン)王朝のことです。阮福暎(グエン・フック・アイン)が、開祖嘉隆(ザー・ロン)帝。クオン・デ候の5代前の御直祖です。(阮氏世譜はこちら→阮(グエン)朝の皇帝系図|何祐子|note )
 


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