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『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』 ( Saigon Vietnam,1957) ~ 第10章 欧州滞在8カ月~


 辛くも香港を脱出出来たクオン・デ候は、予てから計画していた欧州行きを決行することにします。
 
香港から一緒に来ていたベトナム人同志の張維瓚(チュオン・ズイ・トアン)と杜文禕(ド・バン・イ)(其々、フランス語、ドイツ語堪能)、林譬(ラム・ティ、英語堪能)を供に連れ、シンガポールからヨーロッパ行き船に乗り込んだのです。

 初めにイタリアの都市ナポリに到着したクオン・デ候達は、次にドイツのベルリンへ移動します。
 滞在したドイツのホテルでの失敗談では、ドイツ人の素朴な親切さと、ドイツが第一次欧州戦以前に確立していた工業技術力の高さに感服した事が書かれています。

 クオン・デ候の欧州滞在時、広州に居た潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が、広東督軍の竜済光(りゅう・さいこう)により捕縛される事件が発生しますが、クオン・デ候は、この事件の背景は自分の欧州滞在情報が関係ていると分析しています。

 ロンドンに滞在中、パリに滞在する改良派の雄・潘周禎(ファン・チュ・チン)に密使を送って接触を試みます。しかし、これをフランス側の陰謀だと疑ったファン・チュ・チンは、密使を警察に突き出した為、この事が原因で逆にフランスに逮捕されて悪名高いパリの『サンテ監獄』に収監されてしまいました。
 警察に突き出された密使、張維瓚(チュォン・ズイ・トアン)は、この時丁度本国に帰国していた仏印のアルベール・サロー全権のお使いをしてサロ―の手紙をクオン・デ候へ渡しに来ました。

 この時クオン・デ候がサローへ返信した手紙は、
 『過去数十年に於いて、フランス人がベトナムの土地で施行した数々の例を見ても明らかなように、ベトナムに対するフランスの政策というのは、搾取政策、愚民政策に他ならず、間違っても絶対に開化政策と呼べるものではない。』
 
と断定した内容で、また、
 『ベトナム人民に完全な自由と平等を享受させること。ベトナム人を政治に参加させること、公平な内容へ法律を改定すること。民知レベル向上の為の教育改革、そして実業の振興、平民生活を改善する事。』
 
と具体的な要求を列挙し、
 『もしフランスがそれら政策を実施したのを確かめた後なら、何も自分をわざわざ呼び戻す必要などなく、自ら喜んで帰国する。』
 
と、正論を述べて、サロ―の要請を突っぱねています。   

 どうにかしてクオン・デ候を誘惑したい『サローの右腕・インドシナ総督府の政治諜報を掌握する特権助手マーティー』は、
 『ベトナム阮王朝の景(カイン)皇太子の拡大写真を祭壇に掛け、私に対して敬意を表していることを手紙に書いて知らせてくれ』
 
と密使に頼んだそうですが、クオン・デ候は、
 『私がフランスに抵抗する真の目的は、祖国と国民の為のみ。自己の利を考える気など微塵もない。ベトナムにとって実のある開化政策を実施せず、物質的手段を以て私への誘惑を試みるだけならば、いくら器用な手段を苦心した所で何も結果は得られない。それで私が変心し、志を曲げることは絶対に無い。』
 と、アジア人懐柔
を研究し尽くしている西洋人サロ―が使った”お家騒動扇動”の古臭い手口を明確に批判しています。

 『愛國』『仁義』『御霊』『英霊』『御奉公』…等々、どんな美辞麗句を以てしても、結局全アジア人に対し『命を粗末にせよ!』と叫ぶその声の正体は、取敢えず『第五列(=内部に紛れ込んだ敵側扇情部隊)』の可能性を疑って掛からなければなりませんね。

 ところで、この時双方の密使として活躍(?)した元同志の張維瓚(チュォン・ズイ・トアン)ですが、クオン・デ候は、
 「(彼は)後日サローによってサイゴンへ送還され、 その後どうなったのか分かりません。」
 
とのみ、意を含んで最後に書き添えています。

 それもそのはず、調べて見るとこの張維瓚(チュォン・ズイ・トアン)は、クオン・デ候からの返信として『偽の手紙』を偽造してサロ―へ提出(原本はフランス海外領土省に保存)して、その功績により無事本国へ送還、それ以後サイゴン演劇界で劇作家として活躍しました。

 当時のサイゴン・メディア界などは完全に西洋資本家が牛耳っていたのですから、同時期に逮捕された潘周禎(ファン・チュ・チン)がサンテ監獄行きだったのに比べ、同志を売った後で何食わぬ顔をしてフランスに寝返り敵のお情けに縋って生活する張維瓚(チュォン・ズイ・トアン)を、当時べトナム義人たちはどんなに苦々しく思っていたことか。
 それが、クオン・デ候が特に意を含んで言及している理由でしょう。 

(1913年9月頃~1914年3月頃) 


 

**第10章 欧州滞在8か月**

 
 欧州行きに関しては、予てから立てていた計画がありました。学識のある程度高い者を選抜し、10人超規模の団体を組織して、有益な欧州視察となるような旅程を精査し実現しようと考えていたのです。
 
 その目的の為に、帰国して南圻地方で寄 進を募る予定だったが思ったようには事が運ばず、結局この視察団も自身の考え通りにはいきませんでした。私の此時の欧州滞在は旅行と言ってほぼ等しく、視察と言えるものではありませんでした。

 初めにシンガポールを出た時は、まず先にイギリスへ渡り、その後ドイツへ行く予定だったのでロンドン直行切符を買いましたが、その船はロンドンの前にフランスのマルセイユに寄港することが判明します。
 シンガポールから華僑の友人も何人か乗船していたので、どんな些細な事からでも情報が洩れるか分からない。その為、イタリアのナポリで杜文禕(ド・バン・イ)と一緒に下船してしまい、陸路を取って列車でドイツへ行くことにします。
 張維瓚と林譬(ラム・ティ)は、2人共学生だから別に危険はないので、船でそのままロンドンへ直行しました。

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