ベトナムのラスト・エンペラー、第13代皇帝 バオ・ダイ帝。
今日まで日本のベトナム史界では、クオン・デ候に比べて多々取り上げられているので御存知の方も多いのではないでしょうか。
しかし、、何故か、日本側研究者が過去に纏めた史料中のバオ・ダイ帝の評判は、芳しくありません。。。😢😢😢
それは多分、あの当時『仏印に駐在してた』とか、『実際に帝と会った』等々の方々が残した日本側の回顧録にそういった側聞・仄聞があることが一番の原因かと思います。
その検証に最良だと思うのが、1944(昭和19)年12月14日に第38軍(印度支那駐屯軍)司令官に着任した土橋勇逸(つちはし ゆういつ)中将の回顧録『軍服生活40年の想い出』(1985)です。⇒(国会図書館オンラインで全文無料。)
土橋司令官は、『仏印武力処理』、通称『明(マ)号作戦』後のベトナムにクオン・デ候が帰って来ることを頑強に拒んだ張本人の一人ですが、その表向き理由を『内政不干渉主義』、内向きの理由には『巷の噂に反して、バオ・ダイ帝は有能』だという自説を展開して、がっつり内政干渉したという面白い方です。。(笑)😂😂
その該当部分『第6編 大東亜戦争時代 第2章 作戦記録 第5節 軍司令官時代』から抜粋してみます。⇩
ここで、先の記事『チャン・チョン・キム著『 Một cơn gió bụi(一陣の埃風)』③ 第4章 フエ新政府樹立1/2』の中のキム氏の文章を思い出しませんか。⇩
「以前、私は、バオ・ダイ帝がどの様な人物か知らなかった。フランスの保護統治下では、彼は半ば諦め何もせずにただ狩猟やスポーツに興じていたらしいが、4月7日に拝謁した時の帝は威厳があり、話す内容も至極真っ当だった。」
そうです、、ベトナム国内ではキム氏のような知識人の間でも、フエに在るバオ・ダイ帝とは、「フランスの保護統治下では、彼は半ば諦め何もせずにただ狩猟やスポーツに興じて」いるというのが定説だった状態が判明します。。。
それなのに、、、ベトナム・ハノイへ着任してたった1,2か月の土橋総司令官が、赴任後に『バオ・ダイ帝に関するレア情報を入手』していた。それも、『みんな知らなかったダロ、来たばかりの俺が分かるって、すげーだろ。』という感じで回顧録に書いてる。。。 変ですよね?!🤔🤔🤔
⇧私は、多分土橋司令官が信頼に値する確かな秘密の情報源があったと思います。多分、海軍秘密情報。😑😑🤐 えーと、それはさて置き、
『我々は、大日本国が我々を解放してくれたというこの恩を、絶対に忘れてはならない。』‐1945年4月チャン・チョン・キム内閣宣告文に書いた様に、キム氏回顧録『一陣の埃風』の巻末史料に、日本が降伏したという確かな情報を得た後で1945年8月17日にバオ・ダイ帝が国民へ下賜した勅書文が掲載されてます。⇩
そして、これが8月25日 退位の勅書文です。⇩
これを見ると、情報元は何処かはさて置き土橋司令官の得ていた情報が尽く当たっていたことが解りますよね。
「安南はフランスの保護国で統治はフランスがやっており、アンナン政府が直接に受け持っている部面は極めて小範囲である。民の幸福を考えても
出来る余地がないのだ。また、彼の傍ではフランスの役人が睨んでおり、彼の周囲の現地人は全部フランスの傀儡に過ぎぬ。何をやるにも手足は縛られているのだ。福祉を考えないとは現地人の言う声であろうが、やりたくても出来ないと見るのが至当ではなかろうか。…
…第一現地人で彼の周囲以外の有力者で親しくバオ・ダイと語った人があるだろうか。いわんや現地の一般人に至っては何も知るところはなかろう。が、その声はフランスに対する恨みがバオ・ダイに向けられるからではないか。彼はテニスやブリッジの名手で狩猟は玄人に近く獅子狩りや虎狩りまでやり、また飛行機なども操縦するという噂ではないか。そうだとすれば馬鹿では出来ぬ芸当である。恐らく韜晦術を使い護身の具とし、悧巧ぶってフランスのに睨まれることを予防しているかも知れない。」
実際、これが本当だった訳です。
しかし、戦後日本のベトナム近代史研究に於いては、
クオン・デ候⇒独立を忘れ、日本で遊んでいた虚け者
バオ・ダイ帝⇒フランス傀儡、遊び人で甘い性格
こんな⇧風なレッテルが張られ続けて来ている様に思います。それなのに、実際にベトナム側の原本を引っ張り出すと、
”なんだこれ、全然違うやん。。。” と、私はいつも愕然とします。😨
こっ、これでは、『日越友好促進』など、”絵に書いた餅ですやん…。”
なんで日本の外務省は気にならないのか。。(笑)😂😂