見出し画像

本の登場人物・時代背景に関する補足説明(18)

『松岡洋右著「興亜の大業」』
  → 昭和16年5月第一公論社発行です。最近では、日本で復刻もされたようです。
 内容ですが、冒頭一言目に、「私は全ての希望を青年に懸けて居る。」と語りかけ、全編を通して「青年諸君」に対し自分の考えを訴える内容です。第一章「大陸日本への道」、第2章「開拓者としての大和民族」、第3章「大陸の先駆者満鉄」、第4章「興亜の大業」、第5章「み民吾れ」、という構成になっていますが、本を読まれた方は解ると思うのですが、文章に少し違和感があります。全般として目の前の「青年諸君」に対して熱く訴えかけるスタイルで一貫していまして、けれど、出版時期からして満鉄新入社員向けとも考えにくいと思います。そこで、私の推察は、これは松岡洋右の大川塾講演録が、後ほど出版社の手により編集され出版された物だと考えます。大川周明の著書『亜細亜建設者』(第一書房)も、昭和16年(1941年)に、大川塾での大川の講義内容を元に出版社が書籍にしたそうでして、又、第一公論社の後記は、「当局の許可を得て文部省教学叢書中の松岡洋右先生「興亜の大業」の記事を多少変改引用せるものなることを附記し併せて深甚の謝意を表するものである。」とありますので、時期的に見ても、大川周明の書籍と同じ経緯ではないか、と推察致しますが、どうでしょうか。。。
                    松岡洋右著「興亜の大業」

『その分断に国内の新聞メディアが大いに加担していた』
  →今度の大戦では、宣伝は数年前から怖ろしいほど巧妙に働いていました。一帯、デモクラシーという政治形態では世論が全能であって、世論の支持なくては政府は何事も出来ないんです。現にフランス、イギリス、アメリカにおける事実に徴して見れば分かることです。この三国の世論は宣伝により驚くほど首尾一貫した濃密さで、誤まられあるいは誤導されていたんです。だから、いよいよ危険が認識され、再軍備が要求された時は、既に遅きに失していたというわけだったんです。」
           アンドレ・モーロワ氏著『フランス敗れたり」

『ペタン元帥』
  → 「アンリ・フィリップ・ペタン。1856-1951。フランスの軍人。第一次大戦で仏軍の指揮をとり「ヴェルダンの英雄」と呼ばれた。40年5月副首相に、6月レノー首相を継いで首相に就任(~44年)、ドイツとの休戦協定に署名、ヴィシー政府の国家願元首となる。戦後は裁判で無期禁固刑に処せられた。」
                   『フランス敗れたり』
 このペタン元帥に関しては、興味深い記述を、神谷美保子氏の『ベトナム1945』に見つけました。⇩
 「東久邇宮が第一次大戦から1927年まで、パリに滞在した際、ペタン元帥からこの次は日米の戦争になるが、日本はその準備をしているかと度々言われた」⇒東久邇宮の副官だった杉田一次氏(第37期軍人)の講演録からです。
 「東久邇宮は、ペタン元帥から度々言われるので、クレマンソーに聞いたところ、同様の答えを得た。アメリカは日本をまず、(経済的に)圧迫する、日本は短気者だから、戦争になると自分は考えていると言ったという。」

『ヴェルダンの英雄』
  → ペタン元帥のこと。『ヴェルダン』は、西洋世界では有名な第一次大戦の激戦地です。
 「第一次大戦の1916年二月から12月にかけてのドイツ軍とフランス軍との戦い。独仏両軍合わせて42万の使者、80万の負傷者を出した。ヴェルダンはフランスの北東部、ムーズ川の沿岸の都市。」
                  「フランス敗れたり」

『レノー内閣』
  →「ポール・レノー。1878-1966。フランスの政治家。1930年より蔵相、法相などを歴任。40年3月、ダラディエの後の首相に就任。同年6月に辞任、ペタン元帥が後を継いだ。」
                 『フランス敗れたり』

『アンドレ・モーロワ著『フランス敗れたり』』
  → 原本は1940年9月発刊です。日本では、高野彌一郎氏の復刻版が2005年に発刊されています。モーロワ氏は、英仏の政界や軍部首脳者に多くの知己があり、第2次大戦の英仏連絡将校として派遣され従軍しました。第一次欧州大戦(1914‐1918)の戦勝国フランスが、1940年6月パリを占領されてヒットラー率いるナチス・ドイツへ降伏しますが、この大戦の内実を知る詳しい資料として、モーロワ氏は貴重な証言を残しています。特に、最終章では、フランス国内に存在した『物資不足よりももっと重大な欠陥』が説明されています。非常に興味深い分析ですので、ちょっと長いですが抜粋してみます。⇩
 「戦車通で知られているド・ゴール将軍は、ロンドンで軍隊の編成を開始した。将軍のこの計画は、多くのフランス人に困難なる良心的問題を投げかけた。あるフランス人は言う「フランスのこの苦悩の時代に際し、第一にやらねばならぬことは、国内の統一である。」と。又、あるものは、「休戦条件を認めることは出来ない。」といって、ド・ゴール将軍の麾下に馳せ参じた。かくてこの2派は、ロンドンとボルドーの間で、ラジオを通じて相互に避難し合った。」
「1914年のフランスは、比較的統一した国でしたが、1940年のフランスは非常に不統一の国でした。(中略)シャトーブリアンは、「恐怖政治」について、この血の溝は決して埋められることはないであろう、と申しています。革命の記憶が長い間フランス人の政治生活を支配したことは確かです。しかし、1914年には、外敵に対して慎重なる国内の和解が成立しました。」
「ところが、前大戦終了と共に、この田園詩的風景には終止符が打たれ、ロシア革命は労働階級に新しい希望を、中産階級には新しい恐怖をそれぞれ与えたのでした。中産階級のある小部分では、ファシズムとナチズムがコミュニズム革命の防壁になるであろう、と無邪気にも考えていたのです。モスクワとベルリンの全体主義政府は、(中略)フランス国民を自己の陣営に引き入れようと、巨額の費用を投じて宣伝戦を戦わした訳です。この2つの外国の触手が、フランス国民の間に古くからあった深い割れ目を更に新しく割いたものです。」
「共産主義一派が、ブルム内閣に強いた改革方法は、過敏であり不器用でした。元来、フランスという国は、囲いの中の国であり、城壁を囲らした国であり、籬で囲った国であり、鎧戸を下した国であり、かつ閉じられたる帳簿の国です。権力による個人の財産への侵入はフランス国民に不快の感情を起こさせ、その結果、一般民衆の中に不平部隊とでも称すべきものが生じて、この連中は自分ではそうとは知らずに、外国の宣伝に対して無意識的支持を与えていた訳です。」

『サイゴン財閥や在仏印既得権益者』
  → 「仏印の事業の大部分はサイゴン財閥の手にあり、サイゴン財閥はユダヤ系とコルシカ系であった。コルシカ財閥は殊にその主力をサイゴンに集中し、その巨頭とも言うべき人物は総督府の財務局長官クーザンである。これだけでも財閥が総督府を動かす実力は推察し得る筈であった。またパリに本店を有する印度支那銀行は仏印の発券権を持ち、他の諸銀行と財閥とを押さえて、代々の総督さえも頭が上がらないという勢力をもっていた。」
                石川達三氏『包囲された日本』

 作家だった石川達三氏は、海軍徴用(報道班)を受けて、1942年1月台湾、海南島を経て南ベトナムのサイゴンへ赴き、報道部長堀内大佐の指揮下に入りました。同時に徴用を受けた25人の内、石川氏以外は新聞記者と報道写真家だったそうです。

『印度支那銀行が発行する仏植民地通貨ピアストルは、フランス本国がドイツに降伏しても、暴落しなかった』
  → 「仏印の経済はもともと本国中心主義で、ピアストル紙幣の金準備もほとんど全部パリにあり、十フランを一ピアストルとして為替勘定をしていた。本国が敗北して仏印の経済は足場を失ったが、同時に貿易の65%も失われた。しかし(中略)ピアストル貨は米ドルに基準を置いて少しも下落していない。」
                   『包囲された日本』

『本国以外の何処かに保管され』
  → 金塊は何処へ。。。と考え巡らせてみましたが、私なりに推論してみます。ニクソン・ショックのきっかけになった、あの事件です。戦後フランス大統領になったド・ゴール将軍が、米国に直接飛行機を乗附け、仏国がアメリカに預けてあった金塊を強引に奪還したという事件。それにより、アメリカ大統領ニクソンがドルと金の互換を停止、所謂ニクソン・ショックに繋がりました。何となく、これ⇧が、ショックの本当の理由じゃないの、、、と思えませんか。。。あくまでも私の推論に過ぎませんが、独りベトナム近代史を追って居ると、何故か不思議に、現代金融史の裏側にぴったりと寄り添う印象を持つことが多いです。

『当時仏印の重要なポストにあった人』
  → 「財務監督官カゾー、労務長官ウィントンベール、交趾支那総督ウェベル、商工会議所会頭アルダン、在郷軍人会長セイヤー、サイゴン言論界の王者ラセプロチエール(ラ・ペデシュ誌社長兼主筆)等々」
                 『包囲された日本』

本の登場人物・時代背景に関する補足説明(19)終|何祐子|note
ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?