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本の登場人物・時代背景に関する補足説明(16)

『西南戦争』
  → 「西南戦争は、日本が近代国家として生まれ変わろうとする混沌の中で、そこに生きる人々の苦渋が噴出したような戦いだった。征韓論をきっかけに明治新政府に対立が生じ、明治維新を成し遂げた仲間内で思想的、感情的な葛藤が露になった、明治十年二月十四日、薩摩軍一万六千が蹶起。鹿児島から北上を開始した。総大将には西郷隆盛。19日には大久保利通ら政府側が征討令を発する。」
                                          『狼の義 新犬養木堂伝』

『戦地探偵人』
  → 近年でいう所謂『従軍記者』のこと

『戦地直報』
  → 各新聞社が戦地探偵人を戦場へ送り込み、郵便で送ってくる戦況記事のこと。

『西南戦争後に犬養毅が詠んだ漢詩』
  → 登城山憶南洲翁  城山に登って南洲翁を思う
  麟閣幾名賢  麒麟閣に集う賢人は大勢いるが
  濁見一頭地  西郷は頭一つ抜きん出ていた
  先蹤誰能攀  その人の為した功績を誰がよじ登ることができようか
  鬱嵂城山翠  城山は今も深い森に覆われている
           『狼の義  新犬養木堂伝』

『金玉均(きん・ぎょく・きん)』
  →「金玉均は、朝鮮の志士だ。若い頃、慶応義塾で国家の近代化について学んだ。その後、朝鮮の改革を唱える「開化派」の指導者として頭角を現し、明治17年には朝鮮の王政を打倒して清からの独立を図る「甲申事変」を起こした。」        
            『狼の義 新犬養木堂伝』

『如月会』
  → 「松井石根大将の後押しで、女婿の参謀本部の第八班長、永井大佐(永井八津次大佐33期)が中心となっていたクオンデ殿下を後援する如月会」    
           神谷美保子著『ベトナム1945』

『あんなに中国と中国人を愛した人はいない。』
  →「筆者(=神谷美保子氏)の父、神谷憲三はジュネーブ滞在中、松井大将を補佐して、一年近く同じ宿舎で過ごした。涙を見せることがない人だが、松井大将の話になると、あれほど中国と中国の人々を愛した人はいないと、南京虐殺の誇張された数を強く主張し、うっすらと涙を浮かべる。」     
                『ベトナム1945』

『大亜細亜協会(昭和8年創設)』
  → 「当時、東京新橋内幸町の大阪商船ビルの662号室。」      
             早瀬利之著『将軍の真実』

『荒尾精(あらお せい)』
  →「青年大陸開拓者の先達であられた荒尾精先生は、明治19年2月、28歳の時、陸軍中尉として渡支され、漢口に楽善堂を開き、同志を糾合せられたのであるが、目的を「世界人類の為に第一番に支那を改造せんとするに有り」      松岡洋右著『興亜の大業』

『南君』
  → この頃クオンデ殿下は、「南一雄(みなみ かずお)」と呼ばれていました。

『インドシナ駐留第38軍高級参謀・林秀澄大佐』
  → 「第35期。陸軍大佐。1944年1月15日、仏印処理後の統治計画委員として、インドシナ駐屯軍司令部付きの内命を受けた。極秘裡の安南人の民族独立運動の研究命令を受け、サイゴンに赴任した。」

  『ベトナム1945』著者の神谷美保子氏は、当時インドシナ駐屯軍渉外参謀だった神谷憲三氏の実の娘です。神谷憲三氏は、
 「第35期軍人。軍より東京外語大仏語科に国内留学、卒業後、情報・渉外将校。太平洋戦争開戦後、印度支那駐屯軍、渉外参謀、兼任、日本大使館付随員。」       『べトナム1945』

『「軍事武力処理」(=軍事クーデター)通称「明号(マ号)作戦』
  → 「奇襲作戦の秘匿名で、作戦成功に続くインドシナ統治計画案とともに、当時の日本軍部では「仏印処理」または「仏印武力処理」と呼称されていた。1945年3月9日作戦実行の直前に、XXより作戦名が「マ号」から「明号」と改称された。マ号作戦を土台にしたものが明号作戦だといえる。」     
               『ベトナム1945』

『静謐保持方針』
  → 「「仏印静謐保持」とは、フランスの行政機構をはじめ、警察、経済、教育、社会など内政に関しては、仏印進駐以前の状態を保存して一切をフランスに任せ、日本は仏印んの内政に干渉しないということである。」 
       立川京一氏論文『ベトナム国家と民族』

『現地新聞記者の前で堂々と宣言』
  →この記者会見は、サイゴン或いはダラットだという説もありますが、日付は、「6月27日には仏印ベトナム)に渡り、そのあとタイとビルマに飛んだ。」とあります。          『将軍の真実』

『アジア民族解放の世界大戦』
  → 日本留学中にクオンデ殿下とも親しかったインドのボースが戦後よせた寄稿文「年頭、日本国民に寄す」で語った言葉;
 「支那事変勃発の原因は、支那における英米勢力に基づくものなることを指摘し、支那事変を根本的に解決するためには支那のみならず、広く東亜における英米勢力を駆逐することが絶対に必要なることを主張してきた。
このときこそ、日本が全アジア民族と提携して、アジアの敵アングロサクソンを打倒する千載一遇の機会なることを考えていた。(中略)日本の対英米宣戦により、日本の意図が英米勢力をアジアより駆逐し、アジアを解放せんとするものであることに一点の疑いを挟ましめ得ざることとなり、(中略)いな全アジアを必勝に導く基底と思える。」     
                 『将軍の真実』

『そのままサイゴンに飛行機で移送され』
  → 「この時に移送用飛行機を貸したのが、ビルマにいた飛行機隊第五師団の師団参謀長・鈴木京大佐(第35期)であった。」 
               
『ベトナム1945』

『チョロンの陸軍病院』
  → 「サイゴンのショロン(CHO LON)にある陸軍病院長(尾坂軍中位)が、林中佐と岡山中学の同級生せ、同じ工兵隊の軍医だったことを思い出し、陸軍病院内に保護することを依頼する。」  
                『ベトナム1945』
 このチョロンの陸軍病院とは、多分現在のチョーライ病院ではないでしょうか。。。

『現地の幕僚らは誰も賛成しなかった』
  →「この案の発表は、総軍の幕僚、第38軍の幕僚が集まって、1944年2月10日に行われた。しかし、参謀長以下、誰一人としてこの案に賛成しなかった。反対の理由について河村参謀長は、大東亜戦争というのは、ぐんと重慶が提携できれば、つまり支那事変以来の戦争状態を解消できれば、解決する。だから日本としてはあくまで、重慶政府との和平に努力しなければならないと思う。重慶政府と和平交渉をするときに、日本と和平をしたら、重慶が利を得るという印象を与えるために、事の次第によっては、日本軍が今進駐している仏印のトンキン省を和平交渉の時の手土産にしたい、支那に譲る。またある筋では(海軍)、大東亜戦争終結にあたって、現在フランスの直轄領であるコーチシナ省を日本の領土にしたい。だから、ベトナムの独立は、中部の安南省の独立のみを考えてくれと言われているーとの意見を出した。(中略」)さらに、総司令部の参謀副長(政務担当)が独立案には大反対した。労務者の徴収のためにも軍政を敷くべきだと言う。」
                 『ベトナム1945』

 推察するに、北部を重慶政府へ、南部を日本領、中部のみをベトナム国として独立させる、という三分割案を目論んでいた派閥が軍部内にあった、ということでしょうか・・・?

本の登場人物・時代背景に関する補足説明(17)|何祐子|note

ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯|何祐子|note

















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