貧乏だった頃 2
幼少期の頃に返ります。
私は、京都市で産まれ 親父の姉の嫁ぎ先で、
産まれた様です。
京都市の、中立売の辺で育てられた様です。
その時分は、繊維染め物工場で勤めていたそう
ですが、順調に仕事をして養ってくれていた。
保育園 幼稚園 の頃迄は普通に会社に勤め
ていたようです。
父の姉の家にそう何時迄もお世話になり続ける
訳には、いけないので安く住めるところを探して
いたようです。
結果は、京都の端っこの方に住む事になるの
です。が それからが一番大変だったそうなんで
す。
遂に会社が倒産してしまうのです。
その後、母は近所の日傘 雨傘を作っている
何処から、お仕事を頂き内緒に明け暮れ、中々
相手にして貰え無くて1人遊んでいた。又親父
の暇な時には、北野天満宮に連れて行って貰って
いた様です。
この牛さん🐃に乗せて貰って、遊んでくれた
様です。毎月の25日に成ると、天神さんに、出店
を出される様です。
牛さんに、乗せてくれたのは、多分4歳位迄だっ
たように覚えています。
こうして、毎月天神さんのお祝いの時に出店
を出してお祝いしている様です。
弘法さんの日は、毎月 祀られているお寺さん
で、お祝いされています。同じ様に、出店が出て
お祝いされています。京都の方 近辺の方には、
知られております。
保育園から帰ると、妹しか遊び相手が居なかっ
たので、良く追いかけっこして母から、邪魔する
なっ と怒られたものです。
今は、コンビニ 弁当屋さん 他にも沢山の働
く何処が有るけど、その当初では、その様な仕事
しか無かったようです。
その内に、何故か材木屋さんに行く様になり
家から出る様になった。
買い物には、少し離れた場所に行き、玉子何か
は、鶏を🐓飼っている鶏舎に行き 玉子を売って
貰っていたのです。
其の頃の京都市では、路面電車 トロリーバス
と言うバスや電車が電線に接続して走ってた。
今の形になった。
覚えているのは、ウロ覚えくらいですね。
でも、移動するのに、何かしらこの電車に乗っ
て移動していた のははっきりと覚えている。
今のこの様な形に変わったのは、随分と立って
からだなぁ〜。
まぁ、幼少期の頃のお話しは、この辺で
辞めておきましょう。
次は、アルバイトして 自分だけ、どのくらい
変わっていくのか 書いて行こうと思います。