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再び勝ちの価値を考えてみる

こんにちは。この記事は、オリエンテーリング(正確にはフットオリエンテーリング)というスポーツを20年近く競技としてやってきた筆者が、勝ちの価値について考えてみた文章です。2017年にオリエンティア Advent Calendarという取り組みに投稿した記事「勝ちの価値~勝つことについて真剣に考えてみる~」を再編集したものになります。本note記事では割愛している内容(インタビュー記事等)もありますので、こちらの記事も是非ご覧ください!

私の競技歴

約20年近くオリエンテーリングという競技をやってきました。地図を使って大自然の中を駆け巡り、地図上のチェックポイントを順番に辿り、タイムを競うスポーツです。速く走りながらも、正確に地図を読み、判断していかないといけないところが難しい競技だと言えます。

競技から少し離れた時期もありましたが、勝つことを目指して大学選手権(インカレ)、ユニバーシアード、日本選手権、アジア選手権、世界選手権に出場してきました。その中で、大学選手権(ロング競技)で1回、日本選手権(ミドル、スプリント競技)で2回勝ちました。でもその裏では(選手権と名の付く大会に限っても)100回近くは負けています。つまり勝率は数パーセント。この数値を高いと考えるか低いと考えるかはその人次第でしょうが、勝ちたいと思ってやってきた私にとっては決して高い数字ではないです。

そうなんです。もっと勝ちたかったんです。でも勝てなかった。ではなぜ勝ちたいのでしょうか?勝つことってそんなに価値があることなのでしょうか?

まずは勝ちを定義する

勝ちの価値を考える前に、まずは「勝ち」という言葉を定義することから始めてみます。「勝つ」ことの定義を辞書で確認してみると、大きく「相手に勝つ」、「自分に勝つ」の2つの意味が見て取れます。

① 争って相手を負かす。競争して他の者をしのぐ。「大事な試合に-・つ」 「選挙で-・つ」
② (多く「克つ」と書く)欲望などを抑える。 「誘惑に-・つ」 「己に-・つ」 引用:weblio辞書

スポーツで言うと、前者は試合、大会で競争相手に勝つこと、後者は自分の弱さを克服することでしょうか。このスポーツにおける勝ちを「勝ち」と定義します。

なぜ勝ちたいのだろう

子ども時代に野球、バスケットボールをやっていた時は、勝たないことで怒号をくらったり、罰則があるから負けたくないという気持ちもありました。笑(そのようなスポーツ根性の時代でした。)でも勝とうとすること、勝ちを目指すのは極めて自然のことで、勝ちの価値を考えることはなかったです。

人の本能は、潜在的に競争意識を持っているのかもしれません。でもそれ以上に、世間一般的に「勝つこと」=「良いこと」=「目指すこと」という方程式が成り立っており、幼い頃からそのような思想が身近にあったことが大きかったように感じます。

オリエンテーリングを始めてから、順調に上達して結果が出ている時は、勝ちの価値について考えることはありませんでした。チームあるいは自分のために勝ちたい。上手くなりたい。そう思って練習するのが楽しかったです。でもその後、度重なる故障やスランプから抜け出せない時、あまりにも大きい壁にぶち当たった時、明確な目標を見失った時、競技を続けるのが辛くなり「なぜ勝ちたいのだろう」という気持ちが度々生じました。勝ちを目指すことから離れて、ほどほどに楽しめればいいやと思った時期、競技自体から離れた期間もあります。

でも何かが違う。楽しくない。なぜか。それは実体験から「勝ちの価値」を感じ続けていたからではないかと考えています。大学1年時に見た母校の先輩たちがインカレ団体戦で勝った姿。それが本当に輝いて見え、強く勝ちを目指したいと思った実体験の一つでした。それ以来、本気で「勝ち」を目指したかったのだと思います。それでは、なぜ勝ちたいのでしょうか。自分にとって「勝ちの価値」とは一体どういう所にあるのでしょうか。

何を勝ちと考えるか

非常に競技レベルが高い国際大会において、自分の中の「勝ち」の定義を「自分で決めた(現実可能な)目標を達成する」「できないことを克服して成長する」と考えたこともあります。自分で勝つことを定義し、相対的なレースの順位やできあしではなく、自分が決めたことを成し遂げる満足感(幸福感)であったり、次につながるものに重点を置くという考えです。実際に負けたことからの方が、たくさんのことを学べたという実感もありました。それで納得していた時期もあったのですが、徐々に違和感が出てきました。燃え上がるように「勝ち」を目指す。そういう感覚がないことが物足りない。出した結論は、相対的な勝ちを目指さないことは、自分が勝てなくなったことに対する逃げや言い訳ではないかということでした。

勝ちの価値は変わるもの

少し話の展開を変えます。皆さんは下記の偶数番号と奇数番号どちらにより価値を感じますか?

 ① ほとんど練習をしていないが、才能(持って生まれた能力)で勝つこと
 ② 想像を絶する練習を積み、才能がなくとも努力でカバーして勝つこと

 ③ 勝つことにこだわりクラス・階級を下げて勝つこと
 ④ 最難関クラス・階級にこだわりそこで苦労を重ねて勝つこと

 ⑤ 競技歴が短い若手選手が勢いかつ無心で挑み勝利を手にする
 ⑥ 苦労を重ねた競技歴が長い(ベテラン)選手が経験と工夫で勝利を手に  する

 ⑦ 大金をはたいて戦力、環境を充実させて勝つ
 ⑧ 今ある戦力、環境の中で選手を成長させて勝つ

 ⑨ ラフプレーやファウルを厭わず勝つ
 ⑩ 正々堂々と勝つ

 ⑪ 多くの強豪選手が出場を回避した大会であり、自身のパフォーマンスは  かなり低かったが、優勝することができた
 ⑫ とても競技レベルが高く、層が厚い大会であり、自分のパフォーマンス  としてはキャリアハイであったが、ぎりぎり入賞できる順位にとどまっ  た

 ⑬ 勝つためにスタイルを変えて勝つ
 ⑭ 自分の信じるスタイルを貫き、そのスタイルの極みに近づいたものの勝  ちを逃す

どちらか一方を選ぶのが難しい問いもありますが、今の私はどちらかと言うと偶数番号の方に価値を感じています。でも奇数番号の価値を否定するわけではなく、そういう価値観もありだと思っています。何よりも勝つことを優先するのも一つの価値観。「努力が尊い、困難を乗り越えて苦労して得た勝ちこそ勝ちでしょう」と押し付けるつもりはありません。

オリエンテーリングでは、地図上のあるポイントから次のチェックポイントまでのルートを各選手が選択します。ルートチョイスと呼んでいます。フラットなロードを速く走れる選手、地図読みがとにかく上手な選手、アップダウンを厭わない筋力の選手。選手の特性や戦略によってベストルートは異なることも多いです。

人によって勝ちの価値は異なり、その時置かれている心境、境遇によっても、勝ちの価値は変わってくるのではないかでしょうか。絶対的な自分の価値観だと思っていっても、結局は自分の体験、その時の境遇や何かの基準から価値観を決めているのではないでしょうか。もし私がスポーツで勝つことで生計を立てているのであれば、何よりも勝つことを優先する選択をしたかもしれません。

勝つことは目的か手段か

なぜ勝ちたいのかの答えが見つからないままレースに出場し、思考を重ねた結果、勝つことを本気で目指し、仲間ライバルと切磋琢磨し、そのプロセスを味わいながら突き進む。そして、勝てればなお楽しい。「楽しむ」=「幸福感」を最大化するための手段が「勝つことを目指す」ことなのかもしれないと考えるようになりました。

自分にとって「勝つこと」は目標になり得ても、目的ではなく、手段なのではないか。目的はゲームを楽しむこと。勝ち負けに至るまでの喜怒哀楽の感情を楽しむこと。成長に喜びを感じること。つまり勝ちを目指すあらゆるプロセスを噛み締め、人生を楽しむこと。それが勝ちを目指す最大の目的なのではないかと。そして、一人ではなく、同じ目標を持つ仲間やライバルと切磋琢磨し、その取り組みを応援してくれるファンが居ればなおその価値は高まります。

勝ちの価値は一様に決められない

勝ちを目指してそのプロセスを楽しむ。それはかつて学生時代にオリエンテーリングを始めた頃のスタイルそのものでした。勝ちの価値を信じ、勝ちを目指して、日々練習する。上達を楽しむ。結局目指す姿、やりたいことは、無心で好きなことを楽しむという原点にあったのかもしれません。そしてプロセスを楽しんだ上で、勝てるともっと楽しい。

やや強引ですが、私の勝ちの価値を方程式にまとめてみます。

勝ちの価値≒満足感(幸福感)=α×A+β×B+γ×C
A:相対的な勝ちの価値(順位、単純な勝ち負け、大会の規模等)
B:自分が決めた勝ちの価値(目標達成、弱点克服)
C:勝ちを目指したプロセスの大きさ(費やした時間、仲間との練習、ファンの励まし、乗り越えた困難等)
α、β、γ:置かれている境遇によって異なる重みづけの係数

どういう時に勝てたのか

冒頭の通り、私は過去3回選手権で勝ちました。振り返ると下記の共通点があったように思います。

・長い故障や不調期間を乗り越えた後で、レースまでの練習が楽しかった
・自分のオリエンテーリング競技スタイルと地図、地形、コースとの相性が良かった
・レース直近やレース中は、絶対に勝ちたい、勝てるという心境ではなかった(勝ちを意識しなくなった)

心身ともに練習を積むための休養が十分に取れているため、心の底から練習自体を楽しむことができ、十分な練習を積むことで自信がつき、レースの結果(勝ち負け)に対する不安な気持ちがなく、楽しんでレースができました。

オリエンテーリングの場合、地図、地形の特性を理解した上で、予想コースを立てながらその特性に応じた対策を練って練習することが重要です。(大会開催が決まったエリアは立ち入り禁止となるため、過去のマップを見たり、近隣のモデルマップで練習したりして、地図、地形の特徴をつかむ準備をします。)勝ったケースでは、自分の競技スタイルと地図、地形の相性が良かったこともありました。そういう意味では運もあったと思います。

整理すると、キーワードは「休養」「無心」「運」でしょうか。どうやら勝ちは意識し過ぎて、休まず追い求めすぎると、逃げるものなのかもしれません。

ファン視点での勝ちの価値(ルールと公平性)

ここまでは、実体験に基づく競技者視点で勝ちの価値を考えてきましたが、ここからはスポーツファンという視点で勝ちの価値を考えてみます。

どんなスポーツでもルールというものがあり、ルールで勝ちを定義しています。裏を返せば、ルールで勝ちが定義できないものは競技スポーツとは言えない。ケンカに勝ち負けはあっても、ルールがないのでスポーツとは言えないでしょう。ルールがあるということは、制約がある、管理されているということ。スポーツは一見すると思い切り自由に動き回れるというイメージがありますが、実際にはあるルールの制約のもとで勝ち負けを定義し、そのルールが管理された環境の中でのゲームと言えると考えます。

またスポーツでは高い公平性が求められます。ルールは公平性を保つための一つの手段とも言えます。アンチドーピングや短距離走での追い風参考記録というのは、まさに公平性を保つためのルールの類でしょう。誤審と思われる判定で勝敗が決まった試合では、納得できないファンが多く、その勝ちの価値は下がるのではないでしょうか。

スポーツではこの2つの要素により、どのような能力が問われるのかが明確になり、勝ちの価値がわかりやすくなっているように感じます。ルールや公平性がわかりにくいスポーツは(そのスポーツをやらない)ファンが勝ちの価値を理解しにくい。逆に言うと、ルールや公平性を理解するからこそ、そのスポーツの勝ちの価値がわかるようになる。「ルール」により相対的な勝ちが定義され、「公平性」によりその勝ちの価値が保たれているのではないでしょうか。

運と不運、不確定要素とヒューマニティー

勝ちの価値を保つには厳格な「ルール」「公平性」は大事ですが、一方、多少の運・不運、不確定要素があることがドラマ性を生み、面白いと思うこともあります。ヒューマニティーを感じるからでしょうか。

オリエンテーリングの場合、大会毎に異なるコース、タイム差スタート(団体レースは一斉同時スタート)、地図の精度の限界、自然相手のスポーツとなります。スポーツの中では比較的不確定要素が大きい方ではないかと思います。でも、競技者(関係者)としてはある程度の不確定要素があることは共通の認識でしょう。その許容範囲を数値化することは難しく、人によって解釈が違うのが難しいところなのですが。そういった不確定要素が多少あるからこそ、それを乗り越えて勝つことに更なる勝ちの価値を感じることもあります。

いずれにしても、競技者、運営者、ファンともにそのスポーツのルールを良く理解し、問われる能力を明確にし、(わずかな不完全さは許容しつつも)少しでも運不運の要素を排除するよう取り組むことが、スポーツとしての勝ちの価値を高めることにつながると感じます。

団体競技における個人の勝利貢献度

個人競技でも団体競技でも(相対的な)勝ちの定義はされています。一方で、団体競技において個人の勝利貢献度はどのように評価できるのでしょうか。

私が子どもの頃は、プロ野球では投手では先発投手、野手ではバッティング成績がより評価されている時代であったように思います。(私のフィルターでそう見えただけかもしれませんが。)最近は投手では中継ぎ・抑え投手、野手では守備、走塁ということがより評価される時代になってきたように感じます。かつては実際に球場に足を運ぶ以外、一部のテレビ中継くらいでしか選手のプレーを見ることができず、(その場合もテレビが写している選手しか見れず)新聞で成績としての数字を見ることしかできなかったことが背景にあるのではないでしょうか。今はインターネットの発達により、選手のプレーを見れる機会が増え、守備、走塁の凄さが見えやすくなってきました。時代、外部環境によって、スポーツ選手の評価も大なり小なり変わってくるものなのでしょう。

選手目線では、チームが勝つことに貢献することを何よりも優先する選手もいるでしょうし、相手の投手からホームランを打つことが1対1の勝負における勝ちだと考えて、そちらに重きを置く選手もいるでしょう。(余談ですが、採点個人競技においては、高い採点を得るよりも、自分の納得する演技をすることに重きを置く選手もいると聞いたことがあります。スポーツであると同時に芸術でもあるということでしょうか。)

オリエンテーリングにも個人戦、団体戦があります。団体戦は駅伝のようなリレー方式になります。多くの場合、3人または4人1チームで、1走→2走→3走(→4走)とつないでタイムを競います。細かい話をすると、個人戦と団体戦ではシチュエーションが異なります。例えば、団体戦は全チーム同時スタートで、コースがパターン振りしています。単純にコースパターンがa,b,cと3つあった場合、a→b→cという順番で走るチームもあれば、b→c→aという順番で走るチームもあり、どのパターンかはレース中でもわからない形式になっています。

そのため個人戦とは求められる能力も多少変わってきますが、総じて言えば各々の走順の中では個人で走っており、まずは個人として速いタイムで帰ってくることが勝ちへの貢献の第一歩と言えます。一方、勝つために序盤の走順ではいかに様子見をして、次走者以降に役立つ情報を伝達できるかという勝利貢献度もあれば、レース前の準備でいかにチームを鼓舞するかという貢献度もあります。(選手というよりはマネージャーや監督の役割でもありますが。)団体競技の方が、勝利への関わり方、捉え方は多岐に渡ると言うことができそうです。

数値では評価できないもの

さて再度質問です。皆さんは下記①と②どちらにより高い価値を感じますか?

 ① チーム自体の勝ちは少ないが、個人成績では抜群の選手
 ② 目立つ成績はないが、チームの勝ちに大きく貢献している選手

一般的には、成績(数字)の方がわかりやすいです。でもそのスポーツのこと、裏事情や背景を知っているほど、②の選手の成績に出ない貢献度が評価できるようになるでしょう。私は走ることを始めてから、トラック競技やマラソン、駅伝選手の速さが実感としてわかるようになりました。また実物の選手を現実世界で見た時に、本当の凄みをさらに感じることができました。

パンデミックの影響

パンデミックにより、オリンピックや甲子園等、多くのスポーツイベントが中止、延期となりました。オリエンテーリングも例外ではなく、しばらくレースから遠ざかる日々が続いています。勝ちの価値に実際に触れる機会からも遠ざかり、今単純にスポーツや勝ちに飢えています。だからこそ、その価値はより輝きを増すものになるのかもしれません。

最後に

今一度、皆さんにとっての勝ちとは何かを考えてみてはいかがでしょう。周りの仲間やアスリートが、どのような価値観を持って勝とうとしているのか注目してみてはいかがでしょう。きっと、もっとそのスポーツや選手が好きになれるのではないかと思います。

本気で取り組んでいる選手の表情はどんなスポーツでも素晴らしいです。そしてその価値は自分自身で決めれば良いのではないでしょうか。勝ちの価値を深く考察して悩んで進んでいく選手。勝ちの価値を信じて疑わず邁進する選手。私にはどちらも美しく、そこにスポーツの価値を感じます。

私自身は、選手権では6年近く勝ちから遠ざかっています。再び最高の舞台で、自分が思い描くレースができることを目指して、プロセスを踏んでいる最中です。自分自身が信じる勝利のために。今もなお「勝ちの価値」を探す道半ばです。

さて、冒頭の勝率数パーセントは高い数値でしょうか?低い数値でしょうか?読者の皆さんの数値への感覚が変わっていれば、書き手冥利に尽きます。

本文章が勝ちの価値、スポーツの価値を再考するきっかけになれば嬉しいです。ここまで長文に付き合って頂き、ありがとうございました。

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