植松の詭弁は考察する価値なし、植松研究者は植松レベルの知能レベルしかないメンヘラばかり

植松某の信者がわんさかわいてきたんだけど、どいつもこいつも俺レベルに論破されるような連中ばかりで正直みてて笑っちゃうんだよね。

バカの元にはバカが集まるというか、類は友を呼ぶっていうのはよーく昔からいわれていることだけど、今回はまさにその典型例といったところでしょう。

っていうか、舶匝(はくそう)って人にわざわざ有料記事のネタにしてもらったらしい。

この人の記事は支離滅裂で内容も説教臭くてクオリティが低くて見てられないものが多いから金を払う価値なんてないんだけど、金をどぶ川に捨てたいと思うマゾの方々にはおススメである。

そんで、この記事の内部で

詭弁の意を辞書で調べましょう。https://twitter.com/wtwtringring/status/1239971719244214275 の背景には、暴力の前の平等への危機意識。
暴力の前の平等は、9.11とそれ以降の戦争で確認済みの事。

と書かれているんだけど、そちらこそどうぞ詭弁の意味について勉強をし直してみてはいかがでしょうか。

詭弁でgoogle検索すると真っ先にこのような記述がありました。

無題

道理に合わない、言いくるめの議論。ごまかしの議論。
 「―を弄(ろう)する」。論理学で、相手の思考の混乱や感情につけ入って相手をだます、見掛け上は正しそうな、虚偽の推論。

それで、わとりんさんのつぶやきである

障害者は殺してはダメだ。大量殺人犯は殺していい。そういう判断をナチュラルにしてしまう人は植松理論を無自覚に内包していることは強く言いたい。お前は植松を批判する資格はないぞと。


というつぶやきは法にのっとった死刑求刑と大量殺人を同一問題にしてるまさしく

>道理に合わない、言いくるめの議論。ごまかしの議論

にあてはまるわけです。

このように植松を肯定している人たちは自分自身が論理破綻し、外から見れば自分も障害者にしかみえないのに同族嫌悪をしている、きつい言葉でいえば「無能」ばかりなわけです。


植松を批判するときは植松がみている、それはわかります。

僕も根では差別を割とナチュラルにするタイプなので、他人のことばかりいえないでしょう。

だが、批判できないor批判するなというのは土台おかしい話です。

こういった人たちは「植松を肯定しているわけではない」「研究のためにやっている」といいますが、内心では同じことをおもっているのでしょう。

しかし、それを実行した人間を肯定すればするほどあなた方のような人間に住みにくい世界になるってわかりませんかね?

もしかして、鏡とかみないですか?

さて、わとりんさん、舶匝さん・・・1度社会に出てみてもっと広い視野で物事をみてはいかがでしょうか。

そのほうがもっと建設的な記事ができるのではないか、個人的に思っております。

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