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高卒から30歳で東大受験を決意し、33歳で合格した男の話・前編【自己紹介】

まだ note を始めて自己紹介をしていなかったので、ここいらで。

私は地方の片田舎の生まれで、地域の子はみんな同じ小学校、中学校に進み、全校で300人程度の小規模でほとんど荒れた雰囲気もなしという環境で育ちました。

中学までは成績のいい方でしたが、勉強熱心だったわけではなく、高校受験前の半年間以外は家で勉強したことはほとんどありません。面倒くさいことが嫌いで、とにかく物事を要領よくこなしたい性格だったので、学校の授業中や合間の5分休憩で課題と次の範囲の予習を終わらせて、あとは家に帰ったらひたすらゲーム、マンガ、テレビといった生活でした。

高校は地元の進学校(当時は2~3年に1人だけ東大合格者が出るレベル)に進みましたが、家で勉強する習慣がなかったため、高校に入ってから成績は下位10%のグループに属し、赤点続きで留年しかけたこともありました。

そもそもその進学校に行ったのも大学進学が目的ではなく、中学から続けていた吹奏楽が県で一番強い学校だったのと、部活で仲の良かった先輩がそこで楽しそうにやっていたからという理由だけです。将来の夢や目標もなかったため、勉強する目的が見つからず、身が入りませんでした。

そんな折、父が病気で他界します。高校2年の時でした。

それまでは周りに流されて自分も何となく大学に行くんだろうと思っていましたが、経済的に余裕がなくなったため、進路について色々と悩むようになりました。

「このまま目的もなしに大学に行っても、将来やりたいことが見つかる保証はない。さっさと働いて家計を助けた方がいいんじゃないか。3歳下の妹はやりたいことがあって大学に行きたいと言っているから、自分が行くより妹に行かせた方が有意義だろう。」

そんなことを考えながら迎えた高3の4月、本屋で開いたあるゲーム雑誌の中にあった、一つの特集記事に目を奪われます。

「新聞奨学金制度でゲームデザイナー専門学校に行こう!」

新聞奨学金制度とは、読売や朝日、日経などの大手新聞社の販売店の寮に住み込み、朝夕刊の配達の仕事をする代わりに、自分が通う大学や専門学校の学費を全額補助してもらえる制度です(ただし途中で仕事を辞めた場合は返済義務が生じる)。さらに給与も貰えるため、きちんとやり切れば家計に一切負担をかけることなく、貯金まで出来ます。

私は記事を読んで、これを使ってゲーム関係の専門学校に行こうと即決しました。

幼いころからゲームが好きだから、母親に金銭面で迷惑をかけないから、という単純な動機からです。

そのままその雑誌に付いていた新聞奨学金制度と東京にある某ゲームクリエイター養成専門学校の申し込み用紙を書き、5月にはもう両方の審査が通って進路が決まりました。

そして晴れて翌年の4月から新聞奨学生としての生活が始まるのですが、それは思っていたよりも過酷なものでした。

まず朝は3時前に起き、朝刊の配達の準備を済ませて、6時半くらいまで重たい新聞を自転車の前後に乗せながら一軒一軒回ります。遅れてはいけないので、そこそこ急ぎ足です。それから朝食を済ませ、学校へ向かいます。

自転車はこんな感じ。もっと前カゴにも大量に入れます。重いです…

15時くらいに学校から戻り、今度は夕刊の配達に取り掛かります。それが18時頃に終わり、夕食と風呂を済ませ、ふと時計を見るとだいたい20時くらいになっています。翌朝は3時起きなので、睡眠を6時間摂るとすると21時就寝です。ほとんど自由時間はありません。

配達の仕事の休みは週に1日だけで、学校がある平日は毎日これが続きます。肉体的なしんどさと、自分が配達している一方で他の友達は自由を満喫しているという現実への疲れから、途中で奨学生を辞めたり、学校に行かなくなったりする人もまま現れます。

途中で辞めると負担してもらった学費の返済義務が生じるため、私には辞めるという選択肢はありませんでしたが、田舎から夢の大都会である東京にやってきた18歳が大人しく21時に寝るはずありません。寮の同期の友達や先輩たちと夜な夜な遊びに出かけたり、みんなで集まってゲームや宴会をやったり、当時やっと一般にも普及し出したインターネットに興じたりで、常に寝不足でした。

当然、授業中も睡魔が襲ってくるようになり、成績が低下します。加えて、仕事として関わるゲームと趣味で遊ぶゲームは違うという当たり前のことや、ゲーム業界の仕事の難しさや厳しさという現実が見えてきたことで、「この大変な生活をしながらでも一生懸命勉強してゲームクリエイターになるんだ」という情熱も徐々に失せてきます。

私が通った専門学校は2年制で、1年目は頑張って休まず通いましたが、2年目の夏頃からはほとんど学校に行かず、ただ新聞配達の仕事をするだけの日々になりました。

そこで次の進路を考えた私は、新たな目標を「アメリカに行ってメジャーリーグの球団職員か通訳になること」に定めました。だいぶ急展開ですね(笑)。きっかけになったのはこの本です。

当時の私にはタイトルが衝撃的でした

私が高3になった2001年、イチロー選手がメジャーリーグデビューを果たします。進路を決めて暇だった私は、学校から帰った後、夕方のBS再放送でイチロー選手が出場したシアトル・マリナーズの試合を毎日のように観ていました。プロ野球は好きだった一方で、それまでメジャーリーグにはほとんど興味はなかったものの、イチロー選手の活躍とマリナーズのシーズン116勝を挙げる快進撃の影響で一気にアメリカの野球にのめり込みました。

そしてこの『メジャーリーグに就職する方法』が翌2002年に出版されます。アメリカの野球ビジネスの仕組みや、球団職員の仕事内容、そして筆者のヨシ・オカモトさんがいかにしてアメリカでチャンスを掴んだかという経緯が詳しく書かれています。今でこそ多くの日本人選手がアメリカに渡って活躍しており、様々な情報も入ってメジャーリーグが身近に感じられるようになりましたが、当時はまだ就職先として考えるなどとは(少なくとも私には)夢にも思わない時代でした。専門学校の授業を休むようになってプラプラしていた私が本屋でこれを見つけた時、タイトルを見て衝撃を受け、運命の出会いのように感じて即購入しました。

貪るように読み、読み終わる前からもう「よし、俺もアメリカに行こう」と決心します。高3で進路を決めた時と同じ勢いです。しかし、ここで問題になったのがお金と英語力です。

新聞奨学生の仕事は給料も出るため、卒業する頃には60万円くらい貯金が出来ていましたが、当然アメリカに行って色々と準備を整えるには心もとない額です。さらに、球団職員になるにしても最初はインターンでしばらく無給の日々が続きます。また、高校時代はろくに勉強もしていないので、英語力も足りません。

そこで色々調べて考えた結果、まずは卒業してから働いてお金を貯めて、ワーキングホリデー制度を利用して、英語圏の国で1年間過ごし、英語を鍛えることにしました。渡航先はオーストラリアに決めました。

当時の資料にあった情報では、1年間の滞在費がアメリカとイギリスでは300~400万円かかるのに対し、オーストラリアは100万円程度で済むとあったからです。

「100万円くらいならすぐに貯められるだろう、それでオーストラリアに行って英語を身につけて、アメリカに挑戦するんだ。」

こうして専門学校を卒業後、何だかんだダラダラしながら様々な職を経て、3年がかりでようやく100万円を貯め、24歳になる年でいよいよオーストラリアに渡ります。

「おいおい、いつになったら東大受験の話が出てくるんだ。」と思われるでしょうが、この後も
「オーストラリアでカジノにはまって乞食生活 → 帰国 → 手術 → ガチの引きこもりニート生活 → ビリヤードのプロを目指す → 塾に就職 → 過労でうつ病 → 復帰後に転機 → 東大受験を決意」
と色々波乱があります。

続きは下のリンクからどうぞ。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。


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