見出し画像

【雑記】「社会に出る」という言葉が嫌いだ

新年度。
先月わたしたちは大学を卒業したから、同期の多くはこの4月から「社会人」になった。そう、「社会に出た」らしい。

「社会に出る」という言葉は、色んなところで使われる。

これくらいの常識やマナーを身に付けていないと社会には出られない、と怒られたり。
社会に出るためにいま勉強することが大切だと、こどもに教えてみたり。
大学生くらいのときに、社会に出るのが怖くなったり。「来月からは社会に出るんだね」と言われてみたり。
「社会に出てみないとわからないことがある」と、神妙ぶった顔で語られたり。

どうやら、就職するとか仕事をし始めるとか、そういうことを指して「社会に出る」とか「社会人になる」とか言う、らしい。
よくわからないなと思う。

わたしは昨年度まで大学生だった。
学生だ。だから、社会には出ていない、らしい。
今年度からは大学院生になった。
まだ、学生だ。だから、社会には出ていない、らしい。
そうなのか?
あんまり、納得がいっていない。

別に、学生のときだっていまだって、自分は社会に出ているのじゃないだろうか。
そりゃ、生まれたときから社会の中にいたのかと問われると困ってしまうけど、でも気付いたときには社会の中にいたんじゃないだろうか。
ずっと、社会の中にいる社会人だったんじゃないか。
社会についてのことを見聞きしてきたし、法律にだって従うし、他の人と会話だってしてきたわけで。

それでも、学生のうちは、社会のこと見えてないよと言われるのかもしれない。
たしかに、あなたから見えている社会は、私には見えていない。
週5日会社で働いている誰かの目から見える社会を、私は見ていない。
でも、わたしにはわたしに見える社会が見えている。
そして逆に、会社で働いている誰かさんには、私に見えている社会はきっと見えていない。
社会ぜんぶを見えている人なんて、どこにもいないんじゃないだろうか。
だから、私は私の社会に出ているし、あなたはあなたの社会に出ている。
週5日会社で働いている社会だけが社会ではない、少なくとも私から見えている社会はそんなに単純で単一な社会ではない。
社会って、もっともっといろんな人といろんな可能性を持っている。

学生と労働者のあいだに、太い線を引きすぎているんだろう。
それはきっと、色んな人を苦しめてもいると思う。
もちろん、それが心を軽くしていることもある、自分はまだ社会人じゃないから、とか、自分は学生とは違って社会人として真剣に、とか。
でも、それが心にひっかかることだってある。
昔は私も、自分のやっていることなんて全て、たかが学生のやっているおままごと・ごっこ遊びなんじゃないかと思っていた。

そして最近、この年になって気付いてきた。
たぶん、わたしはわたしで、何歳になってもそう思うのだろう、これはごっこ遊びかもしれないと思いつつ、何かをし続けているのだろう。
それは、別にわたしが社会に出ていないからではないのだろう。
だから、別に学生か労働者かは、わたしにとってはそんなに重要じゃないし、もちろん言い訳にもならない。
別に誰かを救いたくて言っているわけじゃない、それ相応に覚悟と責任を伴うことを言っているのかもしれない。

それでも勇気を出して言えば、いわゆる「社会人」だってもっと変わっていいと思っている。
学生だって真面目に真摯に物事に向き合っていいし、会社員だってもっと気楽にゆるりと人生を謳歌していい。
そしたら、「社会に出る」だなんて、区切りをつくらなくていい。
わたしがわたしの生きたいように生きることを、「社会に出る」だの「社会に出ていない」だの、くだらない言い方をされなくて済む。
わたしはとりあえず、そんなことを考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?