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傷としての主体性 ——トークセッション「しゅたいって?」の振り返りとして

 本記事は「しゅたいって?」と題されたトークセッションの振り返りであり、内容的には以下の記事の続編にあたります。トークセッションに参加されていなくてもお読みいただけますが、以下の記事には先に目を通していただけると本記事も理解しやすいかと思います。

関係性と傷

傷つくこと・傷つけられること

 「語り部が深く傷ついているとき、聞き手は主体になることができるのか?というもやもやを持ちました」 トークセッションに対して参加者から寄せられたコメントの中にこのようなものがあった。この「もやもや」は、話し手と聞き手のあいだに対話関係が成立するとき、聴かれる-聴くことによって双方の主体性(すなわち相互的な主体性)が現れるという私の話を受けたものであろう。ここでの問題提起は以下のように言い換えられる。すなわち、傷によって対話関係が成立しないのならば、主体もまた成立しないのではないか、と。
 実際、対話はしばしば傷によって破綻する。話し手があまりに傷ついているとき、聞き手はそれを「聴く」ことができないだろう。あるいは、聞き手があまりに傷ついているときも、話し手は「聴かれる」ことができないだろう。それどころか、形式的には対話であってもそこに傷がくい込んでいれば、聞き手も話し手も互いに傷ついてしまうだろう。
 ただし注意しなければならないのは、対話で傷つき傷つけられるのは、予め一方が傷を負っている場合であるとは必ずしも限らないという点である。予め傷を負っていれば最初から対話が成立しないかもしれないが、たとえ一度対話が成立したとしてもその過程で傷つき傷つけられ、そして対話が破綻するということは十分にありうることである。
 相互的な主体性は、単なる概念的な話ではない。もっと具体的な私たちの生身の話である。恋人との深夜の電話で傷つき、友人の悩み相談でなぜか自分が傷つき、他人に思わず本音を語りながら傷ついてしまう、そんな生身の私たちの物語である。対話は傷と無縁などではない。対話しようという欲求が傷によって阻まれ、一度生み出したはずの対話が傷によって失われる。むしろ、傷とは常に対話に付きまとう存在であるとさえ言えるかもしれない。

傷という主体性

 「関係性から逃げ出したい」という感情がトークセッションのなかで話題になった。地域社会のコミュニティで、家庭環境で、あるいは学校の教室の人間関係で。関係性から逃れたいという欲求は決して珍しくないものだろう。私たちは閉じられた関係性のなかでしばしば傷つき、その関係性から抜け出すことを切に願ってきた。
 ここで逃げ出したいと考えるような関係性が対話的な関係性であったかどうかには保留が必要だろう。私たちが抜け出したいと願う関係性の多くが、話を聴かれない場であることは想像にかたくない。しかし、話を聴かれる関係性、すなわち対話的な関係性であっても、そこから逃れたいとときに感じてしまうことがあるのもまた事実である。
 関係性によって傷つけられ抜け出したいと願うとき、そこにも私の主体性が生まれているかと問われれば、私は頷くしかない。そしてそれが関係性によって生み出された主体性であることも私は認めなければならない。関係性によって生み出される主体性とは、必ずしも「聴かれる」ことで心地よさを感じるということではない。他者との関係のなかで傷つくとき、傷つくものとして生まれてくる私も1つの主体である。他者との関係のなかで現れてくる主体性は決して手放しで喜べるようなものではない。むしろ、憎悪や敵対や嫉妬、怨恨といった負の感情を伴ったものとなるかもしれない。しかし、それらもまた他者との関係性のなかではじめて生まれてくる私たちの主体性なのである。誤解を恐れず言えば、傷こそひとつの主体性である。

関係性は善く快いものであるという誤解

関係性やケアに寄せられる期待

 関係性が注目を浴びるとき、しばしば私たちはそれを理想的なものとして語ってしまう。ケアの概念が提示されるとき、私たちはそれをあたかも美しいものであるかのように感じてしまう。対話の重要性を説くときもまた同様に、対話が揺るぎなく善いもので、快を与えるものであると受け取られてしまう。個人主義で競争主義の世の中にしんどさを感じた人々は、関係性やケアや対話に大きな期待を寄せる。それによって更に、関係性は美しく快いものであると、誤解を塗り重ねられていく。
 ひとたび期待をそこに置けば、ケアからは暴力が、対話からは傷が、関係性からはしんどさが漏れ出してくる。それらは表裏一体である。ケアも対話も関係性も、決してきれいごとではすまない。人を癒やすと同時に人を苦しめてしまうのが関係性の性である。
 見田宗介もまた、『社会学入門』において他者が人間にとって両義的な存在であることを指摘している。

他者が第一に、人間にとって、生きるということの意味の感覚と、あらゆる歓びと感動の源泉である。[中略]他者は第二に、人間にとって生きるということの不幸と制約の、ほとんどの形態の源泉である。

(見田宗介『社会学入門』岩波新書、173頁)

覚悟としての相互主体性

 私が述べていた「相互的な主体性」とは、他者との関係性のうちで自己が現れてくるような主体性であった。その関係性は、決して快いものではない。むしろこれまで述べてきたように、傷だらけの関係性でさえある。だから、相互的な主体性は決して傷のない世界の主体性ではない。他者との関係で生じる傷や摩擦をなくそうとすれば、私たちはすぐに個人主義の世界へと引き戻されてしまう。そうではなく、相互的な主体性とは傷を受け止める世界ではじめて立ち現れる主体性なのである。私は、繰り返し関係性のなかで他者を傷つけ、他者に傷つけられる。そうした傷に呑み込まれるのでも、傷を否定するのでもなく、傷を他者とのつながりとして認めるそのとき、傷から私の主体性が立ち現れる。そしてそれは、他者との関係性に基づいた主体性——相互的な主体性である。
 だから、相互的な主体性を認めるということは、一つの覚悟を持つことである。傷つくとわかっていてその道を進むのは、決して楽な選択ではない。自分が傷つくことを受け入れたうえで、他者との関係性に懸けること。他者との関係性のなかで受けた傷を受け取ること。自分が他者を傷つけるという事実を直視すること。それらの先で、他者とのつながりとしての相互的な主体性が立ち現れてくる。


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