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性別について

何やら女性の社会進出という言葉の次にリーンインというカタカナが出てきて、女性起業家、役員女性比率が何%だとかという議論が世間で溢れているように思う。

家事は女性がやるものだ、女の子はそんな頑張らなくていいというなんともいえない価値観に抗う言論も飛び交っている。

往々にして女性が女性の社会的地位向上のために闘っているという印象が強い。

当事者だからと言ってしまえばそれまでだが、私としては男性こそ女性の社会的地位向上に努めるべきだと考えている。

なぜなら社会的地位を上げる、上げないの決定権の多くは現在男性にあるから。

とはいえこの様な大きな抽象度が高すぎる議論はあまり好まない。

もう少し下げて、個々の現場で議論する問題の様に思う。

それは1つの家庭でも、職場でも、政治の世界でもそうだが、それぞれに人が動く論理が異なるのだから、その場その場で適した人(能力的にも意欲的にも)がその役割を果たせば良いのではないかと思う。

例えば会社の役員比率50%を女性にするなどは本当に疑問符が浮かぶ。
まず役員を性別で決めている会社は本質的に仕事とは何か、会社とは何か、誰のための活動かを考えてみたら、その無意味さがわかるような気がする。
もちろん会社のイメージ戦略的に男性もしくは女性を増やした方が対外的に上手くいき、結果として事業が伸び、社会にも貢献できるのであれば性別というのは一つの選択肢足りえるだろう。

次に疑問なのは、50%だ。役員として適した人材を選ぶ際に"では半分は男性、半分は女性"というような決め方をルール化するのは形骸化し、結果会社がうまくいかなくては元も子もない。
50%に限らず、%でルール化すべき事項なのだろうか。


個人的な意見としては男性も女性も別に関係ない。
会社であれば同一の目的を達成するための手段として個を選んで採用活動が行われ、家庭であれば各個人と家庭の状況、目指す理想の姿のために時に男性が家事をし、また時に女性が家事をして何の問題があるのだろうか。
またなぜシッターさんに預けずに自身で頑張って育てないとまるで愛がないかのように考えるのか。
自己犠牲の感覚で子育てをすることはどうなのだろうか。

私には子供がいないのでよくわからないが、別に私が家事をしても妻がしても第三者がしてもその時の状況によって対応すればいいのではないかと考えてやまない。

ただ一度恒久的なニュアンスのもと役割を決めてしまうと危険だ。ある種ラクに感じた人はその立場を守ろうとする。そのため、そうではない方が被害者意識を持ち、健全な人間関係は取り戻しにくくなる。

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