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だが、それがいい。

先日、彼女の体調が悪いということで、
メッセージを送ろうと帰りの電車でしこしこ文章を打ち込んでいるとき、入力した「元気」という単語がなんかやたら引っかった。
無理矢理付加価値をつけることで、文章に馴染ませようとした結果、そこから急にショートショートもどきに発展させるという荒技を試みたわけです。

着想元は、
・最近BKBの小説を読んでショートショートを書いてみたくなった。
・ギャルの文章がいきなり一刀火葬の詠唱につながるやつがかなり好きだったのでそれに近しい事をやってみたくなった。

返信は、
「お疲れさまー、びっくりした!!」
多分、というか絶対に読んでくれていない、
だがそれがいい。
こんな気持ちわりぃことを他人にしても許されるのが、恋人持ちならではの特権だと思っております。
ちなみに内容は8割弱空想。

以下送信内容

〇〇ちゃん、おつかれー
体調はどんな塩梅だい??
元気になっていたらよいなーと思います。

元気…元気という言葉を聞くと否応なしに、少年時代へと、つい思いを馳せてしまう。

市立の学校はまさに社会の縮図だ。
欲しいとせがめば大して思案する事なく、わが子に最新のゲーム機やらテーマパークへの入場する権利を提供してくれる裕福な家庭の子ども。
はたまた給食費を払うことすら難しく、同級生にバレてはしまわないかと怯えながら日々を消費するしかない貧しい家庭の子供。
勉強ができる、できない。
運動が得意、下手。
おもしろい、おもしろくない。
例をあげたらキリがない。
焦点を絞れば優劣は容易に決することができるだろう、しかし、一辺倒の価値を持たず、多角的な要素を持つからこそ人は人たりえる。
ゆえに競わせるだけ無駄なのかもしれない、と大人になった今はそう思える。
しかし成熟という言葉とはあまりにかけ離れた少年期にそのような思慮深い考えなど持てるはずがなく、平均から外れるもの、マイノリティ的思考、行動をするものは例外なく弾かれた。
元気は弾かれた側だった。
なぜそのような状況に陥ったのか、当時も今も見当はついていない。
僕のいたクラス、6-2は過激な事を好む者がいなかったため、良くも悪くもイジメという展開には発展せず、元気は純粋に避けられていただけなので、外部の人間が出張って大事に発展することもなく日常が繰り返される。
彼本人は内向的ではなく、社交的な性格だったのでよく遊びに誘われた。
僕自身は元気に対してネガティブな感情を抱くといった事はなく、極めてフラットに接していた。
「今度の土曜タイヤ公園で遊ぼうぜ!」
タイヤ公園とは学校の近所にある、大きなタイヤを吊るしたアスレッチックが目玉の公園で、今思えばあまりの安直さに微笑ましく思うし、アスレチックがなくなり、現在の通称が皆目検討のつかない公園に対し一抹の郷愁を覚える。
閑話休題。
元気と遊ぶのは一向に構わなかったが、級友の目に触れるのは避けたかった。
わざわざ説明する必要もないかとは思うが、弾かれ者は伝播するのだ。元気と遊ぶ姿を見られたら僕までのけものにされかねない。かといって断る理由もない、僕がうーんといった具合に考え込んでいると、
「遊んでくれたらバケモンカード一箱やるよ」
「え!?」
当時、誕生日にねだり断られた高嶺の物をたった一日遊ぶだけでくれると元気はいとも簡単に宣言してきたのだ。興奮で鼻腔がひくひくと痙攣したことを、今でも鮮明に覚えている。
子どもという生き物はどこまでも欲望に忠実で、僕は即座に遊びの約束をとりつけた。
当日、本当にバケモンカードを一箱買ってもらえた。
正直意味がわからなかったが今も昔も、もらえるものはもらうタチだったので遠慮する事なく我が物として受け入れた。
その後もカードを買ってもらえる、という人参に当てられ、元気と何度か遊んだ。
そしてもらったカードで大幅に強化されたデッキを使い、クラスメートから勝利を手にした。
その場に元気はいない。
カードをもらえるという事実にしか目がいかずお金の出どころ、当時の元気の心情、何ひとつとしてわからない。
卒業した後、元気とは一度も会っていない。

帰省した際、片付けを促され見つけた装飾のはげた缶箱の中から現れたバケモンカードが当時の記憶を掘り起こす。
ざらりとした感情をよそめに、当時愛してやまなかった切り札がキラキラとした光沢を放っていた。
ーーーーーーー「フラッシュバック」より

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