見出し画像

書評 新編 石川啄木 (講談社文芸文庫) Kindle版

金田一京助による、一大石川啄木伝記

この本は様々な視点から読むことができる。基本は金田一京助による、石川啄木の伝記文学である。自分が啄木とどんな付き合いをしていたか。啄木がどんなことを語っていたか。金田一が経験したことは何かなどが語られている。啄木研究の人が読むか、金田一京助研究の人が読むか、明治後期の文学論についての参考資料として読むかで、全く異なる顔を見せる。

では、私はどんな立場で読んだかと言えば、単なる好奇心である。石川啄木のダメ人間っぷりは様々なところで読んできた。特に金田一京助との関係は有名で「金田一さんはなんで啄木を嫌わなかったのだろうか」「家族は啄木を恨んでいるそうだ」というのもよく読んだ話である。

では、実際に金田一京助は石川啄木の事をどう書いているのか。ちょうど昨今「海も暮れきる」という小説を読み、ダメ人間番付を作るなら横綱間違いなしの尾崎放哉の事を知ってから、尚更興味を持ったのである。

石川啄木と金田一京助

石川啄木は歌人として有名であり、知らない人はいないであろう。また、少し調べた人ならば、啄木がいわゆるダメ人間であり、方々から借金をして生活をしていた事も知っているであろう。しかも借金をして何をしていたかと言えば、芸者遊びというのだから始末に負えない。

そんな啄木が最も世話になったであろう人が、この本の著者、金田一京助である。借金の額だけ言えば金田一以上に貸している人もいるが、骨を折ったかどうかと言えば、金田一以上に骨を折ってやった人もいないだろう。

どれだけ金田一が啄木を世話したかというと、田舎から出てきた啄木を養うために本を売り、引っ越しをし、同居し、食費を出し、小遣いをやって生活させていたのである。啄木が一家を立ててからも、嫁姑問題の解決のため仲立ちをしてやったりもした。金を貸してやった事は数知れず。無論返してもらった事などない。

それでも、金田一は啄木を友人として扱った。家族や親戚、友人に至るまで

・・・私の周囲のものは、実はーーー国の両親までーーーみんな石川君と切れる事を望んで・・・

いたにも関わらず、金田一は啄木と最後まで友人であった。一時期疎遠になっていたが、それを金田一は終生悔いている。

では、そんな金田一に対し、石川啄木はどんな感情を抱いていたのだろうか。これが一筋縄ではいかない。非常に複雑な感情を抱いていた事が分かる。

結論だけ吸い取れる、豊かすぎる感受性の弊害

啄木の経歴を見れば、堪え性のない人という事はすぐにわかる。旧制中学は出席日数不足や成績の悪さ、カンニングなどもばれ、退学してしまう。この頃から結核が発病していたというが、それも手伝っていたかもしれない。

石川啄木の才能は、短歌に限らず、小説や思想などを見ても読み取れる。それを金田一は「子供の様なしなやかな感受性」と言った。それがあるから何かの本を読めば、勘所を読み取る事が出来た。

だが、悲しきかな、専門的に学問を修めたというわけではないから、思考が飛躍する。

石川君は・・・議論になると、結論が大飛躍をしがちで、むしろ、その大飛躍を興味の中心とさえした。真の結論はどうでも良い風があって、故意に見せかけの三段論法の下から人の思いもよらない突飛な、而も刺すような皮肉な滑稽な結論を導き出して一座をあっと言わして喜んだりした・・・

啄木が得意とするのは突飛な話であって、現実的にどうすればよいかという話になると、途端に力を失ってしまう。

若し寸毫でも私が君に貢献する事があったとすれば、こんなことを考えては不遜至極であるけれど、その詩人的空想的飛躍の論理的公正であった。

この「論理的公正」が、啄木に重くのしかかる。理由は、啄木がどんなに「正しい」事を言っても「ではお前は実際に出来るのか?」とか「なんでそうなるんだ?」と問い返されると途端に黙ってしまうからである。表面を舐めるだけで奥底までを予測できる感受性の良さが、堪え性のなさと合わさり、論理的公正を欠いたまま結論を生み出すことに繋がる。それが短歌や詩で現れれば良いが、議論では致命的な間違いにつながる。それが、後にアイヌ語の大家となる金田一の論理力の前に暴露されてしまうのである。

そのことは、石川啄木にとって耐え難い事であった。

啄木が上京し、金田一の下宿に転がり込んだあたりの行動を読むと、それが分かる。負けん気が強いと言えばよいが、悪く言えば「自分の方が上だ」と思えないと不安になる、虚栄心の強さが見て取れる。その一例として『蹴る』という行為がある。『蹴る』とは実際に蹴っ飛ばすのではなく、相手を貶めるか何かして、自分の方が優れている、または道徳的に優位に立っていると認識するための行為である。

蹴る人は、啄木曰く『圧迫を感じた』相手である。それが文学の思想の違いだとか言うならまだ多少は納得もできるが、自分を養ってもらっている金田一京助にまで圧迫を感じて、蹴っ飛ばそうとしてくるのである。

私を蹴ろうと苦心をしたことがある・・・少しぐらい、何か石川君の為に表した友情が、石川君を束縛して苦めるというのであった。終に石川君は、果敢に私を蹴ってその見えない束縛を断ち切ろうと奮起したのである・・・

この話は、金田一京助の下宿に転がり込んで、仕事もなく小説も書けず、鳴かず飛ばずの苦しみを味わっている最中の話である。本来なら金田一には感謝してしかるべきで、それ以外の感情を持つことがあっても、表には出さずに心に留めておき、自らの奮起の糧とするべきなのに、金田一を『蹴ろう』とする。文学上の意見の相違ではなく、「友情」が自分を束縛しているから、文句を言ってくるのである。

この行為を「甘ったれ」と言ってしまえばそれまでである。

だが、その一言だけで啄木の理解を止めてしまうのは、もったいないと思う。そもそも、力の使いどころや使い方が分かっていて、自分を律する術を知っていて、生活を充実させる能力を、何の教育を受けることなく手に入れている人など、この世に何人いるのだろうか。

啄木の様な心境になぜ陥るのか。陥ったなら、どうすれば良いのか。そこに多文化理解の鍵があると私は考える。

なぜ『蹴る』のか

啄木が誰かを蹴っ飛ばしたいと、なぜ思うのかを推測してみたい。

『自分には才能があるはずだ。努力も欠かさない。そんな自分が活躍できないのは何故だ。成功できないのは何故だ。このまま負けてたまるか。何かが自分を縛っているんだ。それは何だ?』

『あいつより俺の方が上だと証明しなければならない。そうすれば、自分は「本当は」「運が向けば」、あいつよりも素晴らしい仕事をする事が出来、成功する事が出来るという事になるからだ。運が向くか向かないかは自分の責任の範疇の外にある事であり、自分に責任はない!』

『この借金まみれで不義理を重ね、自分の尊厳を自分で穢し続けている現状に打ちのめされ、絶望に沈まないためには、あいつより俺の方が上だと証明し、自分に責任はなく、運が向けば家族が生活できるようになるのだと証明しなければならない・・・』

と考えたのではないだろうか。それぐらいは24歳の青年にはよくある心境であろう。ましてや啄木はこれが2回目の上京で、覚悟を決めての上京なのである。ここで失敗したら、自分どころか家族全員身の置き所がなくなってしまうというプレッシャーもあったであろう。就職活動や小説の売り込みなどが上手くいかないという逆境もあって、『蹴る』行為でもしないと精神が安定しなかったに違いない。

そんな啄木の心境を、金田一は「虚勢を張った」と見破っており「私には何だか可笑しくてしょうがない」と余裕である。どこまで金田一京助は良い人なのだろう。挙句の果てには、金田一京助自身が蹴られた時、

たとい一分間でも、石川君へかんかんに怒ったのは、人間が小さかったこと、また、本当の意味での友達甲斐が無かったのだと慚愧に耐えない。

とまで言っている。後世の人に向けたアピールかもしれないが、それでも良い人が過ぎる。ましてや、決定的に怒った理由が

人に隠してその当時、鼻の下へ毎日毛生液をつけていた、それを、暴露したもの・・・

というのだから、どこか抜けている。

同じ郷里から先に上京して成功し、定職に就き収入を得ていて、ある程度の地位名声を得ている、自分の論理的欠陥を的確についてきて、生活を養ってもらっている年上の先輩に対し、虚栄心が強い啄木が劣等感を持たないはずはない。今自分が生きていられるのは金田一京助さんのおかげだと思うと、呼吸をするだけで劣等感を感じ、頭を押さえつけられるように感じているに違いない啄木が、自身の劣等感を蹴っ飛ばすために、絶縁に至る覚悟を決めて書いたであろう渾身の創作に対して「鼻の下に毛生液をつけることをばらすとは何事か」と返してきたのである。

『反応するのそこ!?』

となっている啄木が目に浮かぶようである。

是には石川啄木も参ったのだろう。

『いけない、いけない!』『本当はあなたの友情が邪魔になるから、それで、今度は実はあなたを蹴ろうとしたんです。が駄目、駄目、ああ失敗した!』と他愛もなく云う

と白旗をあげている。これを受けて

私も他愛なく笑って、『なあんだ』と、結局また元通りになってしまった。

とあるのだから、石川啄木にしてみれば暖簾に腕押しの気持ちであろう。

友情が邪魔になるとはどういう事なのか、どうして失敗したと啄木は感じたのか、それを考察すればまた面白くなるが、一度それはおいておきたい。

『蹴る』とは何か

啄木の『蹴る』という行為を、私たちはやっていないだろうか。SNSの時代になって、皆誰かを『蹴っ飛ばそう』としていないだろうか。

何故蹴っ飛ばそうとしているのだろうか。どうやったら蹴っ飛ばさないでも大丈夫だと思えるようになるだろうか。そして実際に自分が蹴っ飛ばされたとき、どう考え、行動できるだろうか。

金田一京助の啄木への思いは、慈悲に満ちている。その慈悲すらも啄木は圧迫と感じるかもしれない。どうすれば啄木は落ち着けるのか。どうすれば啄木は満足できるのか。どうすれば啄木は心安らかになれたのか。

ただ、石川啄木のエピソードを拾って、ダメ人間だと結語を言うのではなく、なぜ啄木はそう考えたのかを推測し、どうすればよかったのかを考察してやりたい。そうすれば、私は人に対して優しくなれると思うからである。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?