ADHDっぽい私が心理学を仕事にするまでの話11 ~過酷な「お勤め」生活~
大学院博士課程までん進んだものの博士号は取れずじまいで、仕方なく大学院は終了。
さらに、就職先がなく、助手という形で大学に残ったものの給料は出ず、大学での研究活動は続けつつも専門学校の講師のほか単発のアルバイトで食いつなぐ生活。
さあ、ここからどうなるのでしょうか?
先の見えない生活
さすがに、奨学金も出ないというひっ迫した状況の中、気持ち的には穏やかでない日々ではありました。
経済的に生活を成り立たせなければならない、という事情の中、週に二コマの講師の仕事のほか、アルバイトはこの時期いろいろやりましたね。
多少できたCADを使って図面を書く仕事とか、病院の夜勤職員(夜間救急の受付事務)とか、家庭教師とか、どれも悪くはなかったですが、長続きはしなかったですね。
やっぱ、人間関係・・・orz
自分なりに、変なプライドもあったかも。
バイト以外の時間は大学の研究室に詰め、研究や後輩の指導です。
一応、「助手」ですから。
ちなみに、朝は5時起きで、すぐに散歩、帰宅して英語文献の翻訳、それから朝食を食べ大学へ行く…。帰宅後はすぐに夕食を食べて10時には寝る、という生活でした。
なるべくルーズな生活を改め、ストイックな生活を心掛けました。これは、このような切迫した状況だからやっとできたことだと思いますが、結果として自分の中の怠けの虫、先送りグセを退治するのに役に立ったようです。
この時期、早朝に行っていた文献の翻訳は大学の叢書という形ではありますが、共著の著書として出版することができました。
一方、大学教員の公募にも何度か応募しましたが、書類選考すら通りません(当たり前か…)。
バイトの時間は最低限だったので、生活は困窮を極め、家賃は親に出してもらっていたものの毎月ギリギリの生活をしてました。
もっとも、アパートと大学の往復だけなので、お金を使うといったらほぼ食費なのですけどね。
もっとも、食費はすでに可能な限り節約していたのです。
健康生活への目覚め
実は私、博士課程2年目ごろから「マクロビオティック(玄米菜食)」を「なんちゃって」で実践?していたのです。
私がそのような健康生活に志向したのは、それまで非常に不健康な食生活を送っていた私に、「病」という体からの警告が来たのが大きい転機となったのですが・・・それについては、こちら↓で詳しく書いています。
もともと自然が大好きでエコな生活への憧れもあり、ちょうど自然派食品が一般的に認知されつつあった時期でしたし、近くに自然食材の専門店があり、そこで手軽に購入することができたのも幸いでした。
ただ、いわゆるヴィーガン(完全菜食主義者)にはなれそうになかったですし、なるべく肉類は避け、玄米を中心として豆や野菜、海藻類を多くとる、という「ゆるめのマクロビ」な感じで実践していましたね。
さすがに弁当を作るところまではいかず、昼は学食も利用しましたし総菜を買うこともあり、間食も食べていましたが、ベースは玄米と豆腐かわかめの味噌汁という生活。
慣れたら、特に苦になるということはなかったです。
もはや「お勤め(修行)」生活
それをさらにストイックに突き詰め、「玄米とみそ汁と豆腐を食べときゃ生きていけるだろう!」 とこの困窮した生活のなかでさらに徹底し、ほんとにそれだけでの自炊生活をしていたのでした。
こうなってくるともはや「健康法」ではないですね。生きるための手段そのものでした。
それが、先述の
と合わせて、僧房における精進料理に近いものと認識すれば、ある意味これは私なりの「お勤め」の期間だったのかもしれませんね。(ちなみに、武術の練習も週2~3日やっていましたので…。)
減農薬の玄米を10キロ単位で買い、あとはなるべく添加物のない味噌と豆腐、乾燥わかめ、天然塩、しょうゆなどを買い込み、他におかずを食べるときも野菜や豆類など植物性のものを少し。
その生活で約1年。最低でも1年は生きられることが分かりました。
体重は15キロは減りましたが。(65㎏-> 50㎏)
この生活で、人は玄米とみそ汁で最低1年は生きられる、ということを実証したのです(笑) 実際はもっと長く生きられるでしょうね。(むしろ健康寿命は延びるかも)
最低限、「人はコレだけで生きられる」という実証は私にとって大きい自信になりました(笑)
・・・以上は、まずお金がないという事情もあり、かつ健康のためという意味もあったので、それほどの悲壮感は私自身にはなかったのですが、他の人に話すと引かれる話ですよね。決してお勧めする話ではありません。
なお、自然派食品の値段は概して「割高」なので、考えようによってはぜいたくな生活といえるかもしれません。
転機 道は開ける
そうした工夫? のおかげでなんとか破綻せず、健康も維持しながら生活を続けていましたが、その年の冬休みに実家に帰省した際に転機が訪れます。
これだけ生活が行き詰ってくると、もうあきらめムードで、地元に戻って就職することもやむなしと思い始めていた時です。
父母からは工場やら地元の商店やら、私の専門とは全く無関係の仕事でもいいから、何とか私を就職させようとしていたのですが、さすがにそれは私も思いきれず、拒否していました。
田舎の新聞には、帰省の際に地元での就職を考えてもらうために(Uターン就職)、お盆や正月には求人情報が沢山載ります。
もうなりふり構わず、どこか私の経歴で応募可能なところはないかと眺めていたのですが、医療福祉系の求人は結構たくさんあっても、なかなか「心理士」という求人はないのが実情でした。
ギリギリの選択
でも、このままでは本当に、全く関係のない分野での就職になってしまうという危機感もあり、ギリギリの選択ではありましたが、関連領域ということで、地域では割と大きい病院のソーシャル・ワーカーの求人に対して、ダメもとで応募してみたのです。
(ちなみに、ソーシャル・ワーカーは修士修了時にも応募し、二次で落ちたという苦い思い出があります。)
そもそもソーシャルワークはほとんど勉強したこともなく、採用されたとしても知識もないのでそもそも勤まるわけないのですが、まあ、何とかなるんじゃね? という根拠のない自信に基づく行動だったのですが、ある意味「怖いもの知らず」ですよね。
余談ですが、この「根拠のない自信」に基づく「怖いもの知らず」の行動は結構ありましたね。一言で行っちゃえは「世間知らず」ということなのでしょうけど。
ところが! 事態は急転直下、動きます。
思いもかけず書類選考通過の連絡が!
なんと、ちょうど心理職の人が一人辞める予定なので、その後の心理職を探していると。求人を出そうとしていたところ、私からの応募があり、私の履歴を院長先生が評価してくださったとのことで、ソーシャル・ワーカーではなく心理職として試験を受けてみないか? ということでした。
もちろん、お断りする理由もなく、二つ返事でお受けしました。
試験も面接のみで、後日、合格の通知が。
とんとん拍子に就職が決まってしまいました。
それも、非常勤とかでなく、正職員です。
いや、本当にラッキーですね!
こんなこともあるんだな~と、やってみるもんだな~としみじみと思ったものです。
この時の教訓「ダメもとでやってみろ」は私のその後の人生における指針となりました。
それで、研究助手(無給)は翌年3月までの1年で終わりにして実家へ帰り、病院勤務を始めることになりました。
心理職への門
ここから、私の心理士、心理臨床家としてのキャリアがスタートします。
・・・が、この時点で臨床経験はありませんし、知識はあっても技術的には素人。不安要素はいっぱいでした。
また、正直、曲がりなりにも研究職を目指していたわけなので、研究生活にも心残りはありましたし手放しで喜べず、なにか「忘れ物」をしたような気持ちでしたが、もう他に選択肢はなかったです。
これはこの波に乗るしかないですよね。
次回は、なれない現場の仕事で辛酸をなめる日々、のお話です。
今回もお付き合いいただきありがとうございました。
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