18年間の夜の習慣の終わり。ドラえもん制覇ならず。

時々面倒だと思っていたことも、いざ終わるとなんかちょっと物足りない、寂しい気がする、というのはこれまでも経験してきた。

学生時代の部活とか、バイトとか。

娘が大学生になり、およそ18年間続いた夜寝る前の習慣が今年、ついに終了。

それは、本の読み聞かせ。

娘が9ヶ月ぐらいの時から、夜寝る前に絵本を読む、というのをやってきた。
彼女の弟が生まれてからは、弟には授乳しながら横に転がっている娘には絵本を読む。そのまま全員寝落ち。

娘が6歳になって通いはじめた日本語補習校には、日本語の本が豊富にあって何冊も借りれた。
読み聞かせネタに困らないので、片道45分かけて週1回、6年間通った。
なんなら本を入手するためだけに通っていた。

子どもたちが母の横で寝落ちしなくなり、自分たちの部屋のベットでちゃんと寝るようになっても、寝る前は母のベットに潜り込んで来てとりあえずなにか読む。

二人が中学生になって、そろそろさすがに読み聞かせは終わるかな…と内心思っていた。
その頃はすでに日本語補習校は卒業していて、本を簡単に借りれなくなったのでネタも付きてきた。
家に所有している日本語の本はそれぞれもう、50回ずつぐらい読んでいる。

それでも、「今日は何読む?」と聞くと、本棚から51回目にチャレンジすべく、また本を1冊選んで持ってくる。

「お、おう。まだ読みたいんか」と思いながら、寝る前のこどもに挟まれる10分間はやっぱりホクホクするので、また繰り返す。

さすがに家の本は読みすぎた、ということで、ある時、家にあったドラえもんの1巻と2巻を読み聞かせのネタにしてみた。
すると3巻以降も読みたいと、中学生ふたりが言う。

フランスまでドラえもん送ってもらうのは巻数を考えてもきついので、キンドルで買うことにする。
そして ipad のキンドルアプリで、読み聞かせは続いた。

ふたりが高校生になってもそれは続く。

読み聞かせというよりはもう、ドラえもんの寸評みたいになることもちょいちょいあった。

「このパターンは、あの道具の時と同じだね」
「この終わり方は珍しいんじゃない?」
「この回の絵、ちょっと違うよね」
「このオチは納得できない」
などと読み終わった後におしゃべりする。

ドラえもんは1話がすごく長い時もあれば数ページであっという間に終わることもある。
基本的に1晩に1話だが、短い話の時は「もう1話!」とせがまれることも多く、「えーママ早く寝たいー」と文句いいながらも2話目も読んだりした。そんな時に限って2話目は長かったりする。

基本、私的には、こども二人に挟まれる、ぽかぽかホクホクタイムだったが、疲れてたりなんだか心配事があったりして、読み聞かせめんどいな…って時ももちろんあった。

毎晩、と書いたけど、実際は夏休みや冬休みで旅行している時は「なし」になったりしてるから「ざっくり毎晩、だらだらと」だ。

そして今年、娘がついに大学生になり、息子は16歳になった。
娘が9月から大学近くで友達とルームシェアするということになり、巣立ちの時。
読み聞かせ終了。

息子は家にまだいるけど、彼だけに読み聞かせするという雰囲気にはならず、だらだらと、なんとなく、でも明確に「終わり」となった。

高校生のこども二人に「ドラえもん」の「読み聞かせ」を毎晩していると話すと、結構驚かれた。
確かに「フランス」「高校生」「ドラえもん」「読み聞かせ」という単語を並べると驚かれる感じはわかる。

でも実際は、子どもたちは「夜、か~ちゃんがドラえもん読んでくれるから横で一緒に読む」というぐらいにしか思っていないはずだ。
そもそも、「読み聞かせ」という独立したことばはフランス語にはないから、「ただ単に誰かが読むのを横で聞いてるだけ」なのだ。
だから別に、「子供用ワード」でもない。

高校生男子本人も一ミリも変だと思ってなかった。
漫画読むの横で聞いてるだけだもん、なんか変?ってな感じだ。
「自分で読めば?」と言ったことも何度もある。
でも子どもたちは「日本語の漫画だから、読んでもらったほうが楽」とか言ってた。

なんだかんだ、夜のホクホクタイムと思っているのは私だけではないのかも?ということで、だらだらと18年間。

「読み聞かせ」みたいなある種の固定イメージのついたことばは色々あって、そのことばについてるイメージでこちらの行動が変わってしまうリスクは往々にしてあるんだな、というのがこの18年で得た私の学びかもしれない。
「読み聞かせ」→子供、小学生、本が読めない人のため…etc というイメージ。
そのイメージがない人(うちの子ふたり)にとって、その言葉の意味する行動は、「そういうもの」でしかない。「本を読んでもらうこと」でしかない。

「フランス」「高校生」「ドラえもん」も、それぞれ結構パワーワードというか、ある種のイメージが貼り付いている気がする。

でも、「フランス」はただのヨーロッパの国の1つで、「高校生」は高校に行ってる人で、「ドラえもん」は日本で人気の猫型ロボットの漫画、という程度の認識だと、「フランスの高校生ふたりが毎晩ドラえもんを読み聞かせしてもらっている」という文章は「あ、そう」という程度なのだ。

自分の持っている言葉のイメージ。
相手の持っている言葉のイメージ。
共通認識とされている言葉の意味。
そのあたりに気をくばることを「尊重する」という言葉で言える時があるな、と私はこの文を書きながら思った。私のイメージ。

ちなみにドラえもんは全45巻。
キンドルで一緒に読んだのは43巻まで。
あと2巻残ってる。
読み終わるたびに次も読みたいかどうかを確認して買ってたので、44巻と45巻はまだ買ってない。
買おうかどうか迷ってる。

冬休みにでも買って読もうかな。

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