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富山旅行記2「黒部峡谷鉄道 偉大なる冒険心と、ほんの少しのちっぽけな好奇心」

 ちゃんとした旅行が苦手である。綿密に旅程を組んで、目的地はどこで、何を何時にやって、何時までが自由時間で……みたいな旅行が本来あまり好きでない。宿くらいはちゃんと事前に取るけれども、それ以外のお膳立てはほぼない。

 旅行が好きな人と話をするとおおよそ二種類に分かれる。よく定年後に旅行を趣味にしたような、ツアー旅行に夫婦で参加したり、友達と参加したりする種類の人たち。あとはバックパッカーのようにほぼ身一つ、というのは言い過ぎだが、軽装備で各地を巡る人。

 果たして俺はどちらに近いのか。前者ではないのは明らかだ。かと言って後者なのかと言えば、そこまで逞しくもない。頼れるものには頼り、妥協するところには妥協をする。ただし、譲れない部分はある。それは孤独になることだ。一人になる時間。誰とも話さなくていいし、話してもいいし、それでいてある程度安全で、ある程度精神衛生が保たれる。そんなぬるま湯が好きだ。

 だから、旅行が終わる時に、何だか人に会う前の緊張を覚える。久々の仕事で上司と顔を合わせるような困惑がある。旅行先から去る寂しさよりも、もう沈黙が許されないという絶望感が勝る。

 多くの人は新しい何かを見たくて旅をするだろう。見識を広げたくて知らない土地に行くだろう。自分の周りの世界を拡張する。思い出とはそういう外付けの記憶媒体みたいなもので、そういうのが増えるからきっと旅行が娯楽として成り立っているのかもしれない。

 あるいは、俺のような逃避。仕事を忘れてパーっとハメを外したい。日常から解放されたい。これも娯楽的な理由としては強い。

 富山の黒部峡谷鉄道での旅はそんな旅にまつわる動機を考えさせるものになった。

 黒部峡谷鉄道とは元々黒部峡谷の開発工事のために使われた資材運搬用の列車を、観光に用いたものだ。列車はいわゆるトロッコ列車である。あの、ドンキーコングや星のカービィに出てくるようなトロッコ。箱にタイヤが付いているだけの車両だ(非常ブレーキも付いているだろうけど)。それに乗り込み、制御は全て先頭の機関車に任せる。分かると思うが結構危険だ。急ブレーキを先頭がすればもちろん脱線するだろうし、速度の制御もできないからブレーキの衝撃も受ける。揺れもすごい。

EHR形電気機関車。この電気機関車が渓谷を縫うように力強く走ってくれる。頼もしく美しい。

 元々は乗り心地なんて関係ないのだ。黒部峡谷に水力発電所を作るという計画が明治の頃に立案され、そこから調査隊が入り込んで細い足場を作り、徐々に谷の側を掘り続けながら、トンネルの資材や掘った後の土を運ぶ必要があった。そのために鉄道を引いたのだ。

 だから、線路の幅も狭い(新幹線のゲージの半分だとか)。ゲージは細ければ細いほど工期が短くて済む。効率と手間のせめぎ合いがあったのだろう。

 開発の歴史も、耳を疑うエピソードばかりだった。工事のために作った足場は降雪で毎年壊れてしまう。高熱を持った岩盤にぶち当たった時、作業員たちは体に水をかけ合いながら道具を振い続けた……。

 そんな苦労の末に水力発電所が完成し、そして同所には発電効率を上げるためのダムもいくつか作られた。

 その頃から、旅人たちはこの渓谷に興味を持ち始めたのだ。

 黒部峡谷の雄大な自然を一目見たいと人々が集まり、その資材運搬車のトロッコ列車へと搭乗を希望し始めたのだ。危険という概念が希薄というか、そこまで地位が高くなかった時代の話だから、彼らの要望は叶えられることになる。しかし、そのまま彼等を受け入れては責任問題に発展した時に困るので、(実際、何度か困ったのだろう)トロッコ列車に乗る際は「命の保証はしない」という念書への合意が必要だったのだとか。

黒部渓谷の麗しい水辺。深い谷の生み出した景勝地。下流は川底の表情も穏やかだ。

 珍しい話ではない。海外でも有名な観光地での遊覧飛行とか、危険を伴うレジャーには保険に入ったり、「落命しても文句なし」の書類に一筆書かされる。

 何故旅行者はスリルを求めてしまったのか。それを考える。旅行に行く動機は前述したが、それが全てではないと分かってはいても、その冒険への渇望みたいなものは、今の旅行者が抱くそれとは少し異なるように思える。

 俺は黒部峡谷鉄道のトロッコ列車に乗りながら、そんなことを考えていた。

 見える景色は確かに風情があり、迫力が感じられる。肌で渓谷の風を感じるのもわくわくする。けれども、僅かの危険を伴うと頭の片隅で意識しながら、トロッコ列車に乗り続けるのは破滅的である。死を身近に感じるから生を実感できる、みたいな危なっかしさをスパイスにして旅の動機にしているのではないか。別に悪くはないけれど。

自然のままに転がされた岩石の数々。恐らくこれからも転がり続けるので苔もむすまい。

 人間には元来そういった欲求がある? それは、あるだろう。だが、ならば、旅とは違う種類の娯楽へ向かうはずなのだ。登山とか。命をかけて乗り鉄をしたいとは思わないし、そんな発想を一度もしたことがない。本当に一人きりになりたくて、登山の末にそのまま山岳地帯に篭って自給自足をしたいと思いはしない(少なくとも今は)。

 トロッコ列車で黒部峡谷を分け行っていく中で、死の危険を感じた瞬間はないが、視界の片隅に危険の残滓が入ってきたことはあった。少し顔を出せば当たってしまいそうな鉄柱や、列車すれすれのトンネルの壁。残酷な想像が積み重なる。

 きっと昔はこれより数多くの悲惨なイメージが撒かれていたのだろう。それを「命の保証はしない」と念押しされてまで旅行に出た人たちが、少しずつ開発して恐怖のイメージを取り除いてくれたのだ。

 彼らのしていたことはもう冒険に近い。現代で言うならば登山に近いだろうか。黒部渓谷の開発が命懸けの産業発展への寄与ならば、トロッコ列車の乗客たちは後世に観光発展の種を蒔いたのだ。

 敬服するばかりである。俺には日常のスパイスとして冒険を選ぶような勇気はない。少なくとも今は。危ない山に登る勇気もない。

 無事に黒部峡谷鉄道の旅を満喫できた今、純粋な人間の好奇心が後の誰かの利益になるのを実感した。もしかしたら、スリルを求める人たちの後には、俺のようなちっぽけな好奇心とか遁走への欲を満たすような道ができるのだろうか。ロープウェイで富士山に登れたり、エスカレーターで月に行けたりとか。

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