散歩

 字の小ささは気持ちの小ささです、気持ちの小さい男はダメですよ。幼い頃、母によく注意された。ダメなのは嫌だなあと思って字を大きく書くよう心がけるのだけれど、気がついたらまた小さな字を書いている。
 字の小ささは気持ちの小ささ、本当かもしれない。たった今記入した、書類の氏名欄を見ながらそう思った。氏名欄なのに、僕の氏名よりも余白のほうが主役になってしまっている。
「毎回書類書くとき思うんだけどさ、こう、広すぎるよね、氏名欄」
 向かいに座った妻は何も答えない。代わりに僕の氏名の右側、枠いっぱいに書かれたキリッとした妻の氏名を、返答として受け取った。
 あれ、書類は書いてしまったのだから、もう元妻と表現したほうがいいのだろうか。いや、でもまだ役所に提出していないし、法的にはまだ妻か。しかし、世の中に数多いるであろう、法的には妻でない内縁の妻とかいう方々の方がよっぽど妻なわけだし、法律とか関係なく、目の前に座っているこの妻はもう元妻と言った方がいいのかしら。そもそも元妻という表現は少々傲慢な気もするな。妻、いや元妻はこれから先、妻ではない人生を長い時間過ごすのに、元妻なんて呼んで過去でラベル付けしてしまうのは、失礼ではなかろうか。じゃあ、僕は目の前の女性をなんと表現すればいいのだろう。あ。
「ポスト妻っていうのはどうかな?」
「は?」
「いや妻の後だから、ポスト妻。ポストモダンみたいな」
「え、何が?」
「君が」
 ポスト妻は何も答えなかったが「は?」と言う時と同じ顔をしていた。
 ああ、でもこれからの人生でポスト妻が誰かと結婚してまた妻になった時になんて表現したらいいかという問題は、依然として残るな。いやそれ以前に、ポスト妻は僕の視点から捉えた時の表現であって、僕以外の人間に彼女のことを話す時には使えないのでは。彼らにとってポスト妻はそもそも妻ではないわけだし。ああ、じゃあ「僕の」を先頭につければいいのか。僕のポスト妻、これなら問題ない。……待てよ、「僕の」を付けるなら元妻でよくないか。だって彼女が今後どのような人生を歩もうが、僕にとっては元妻なわけだし。ああ、でもこれじゃあ元妻が持っている傲慢な響きを何も解消できていないな。
「うーん、なかなか難しいな」
「は?書くだけでしょう、早くしてよ」
 ポスト妻……いや当分は元妻だな、は不機嫌に言った。この問題は後回しにして、書類の氏名以外の欄を埋めてしまった方がよいだろう。本籍、大きな字で書いてみたら、アパート名以下を書く場所がほとんどなくなってしまった。仕方がないので、下の少しだけ空いた場所に、小さな文字で収める。
 余白の方が目立つ氏名欄に、ちぐはぐな大きさの文字が踊る本籍欄、書類の中で僕が記入した欄は、乱れていた。これが離婚を目前にした男の心の乱れか、と心の中でかっこつけながら改めて書類全体を眺めると、今度は他の全ての欄を美しく埋めた元妻の文字が目に飛び込んだ。思えばこの度の離婚、元妻の方には心を整理する時間があったのかもなあ。
 しみじみ、ではないけれど夫婦生活の感傷に浸っていると、元妻は僕の元から記入の終わった書類を取り上げようとした。
「あのさ」
 僕はとっさに声を出していた。
「なに?」
「あの、書き直してもいいかな?バランスが悪くなっちゃって」
 元妻は答えず、取り上げた書類を二つに折ってクリアファイルに入れた。クリアファイルなんて、二人で暮らしていた時には見なかったなあ。
「じゃあ、行きますから」
 元妻は言って立ち上がる、カバンには書類の入ったクリアファイル。
 これからどう過ごすのが正解なのかわからなかったけれど、ひとまず元妻を玄関まで見送ろうと僕も席を立つ。そして玄関で靴を履き、外から鍵をかけて……。元妻は怪訝な視線を一度は僕に向けたけれど、すぐに進行方向を見た。
「大事な書類だからさ」
 僕は一応言ってみた。元妻は黙っている。

 元妻は僕の斜め前を歩いている、いや、僕は元妻の斜め後ろにひっついて歩いている。並んで歩くのはやっぱりなんか違うかなと思ったから。
 市役所は元妻との散歩コースにあった。ちょうど市役所のところで折り返すのが馴染みの散歩コースだ。つい数月前までは少ないながらも会話をしながら二人で歩いていた道だったが、今は二人とも無言である、けれど、ずっと無言でいるのもそれはそれで居心地が悪かったので、たまに生えている赤っぽい色の草、電信柱に貼られたくだらない広告、元妻が犬嫌いであることを知るきっかけになった松井さんちの黒い犬、確か名前はシンディだったかな、など目についたものを時々ぼそっと口に出したりしてみた。元妻は時々、ん、くらいは返事をしてくれた。妻の、ん、という返事の響きはかなり冷たかったけれど、仲睦まじかった時代も僕のくだらない発言には同じような冷たい響きで返していたような気がするので、返事をしてくれる温かさも感じた。市役所のところで折り返して、家に戻って、パスタでも作ったならもう少し夫婦生活も続けられるんじゃないかな、とも思ったけれどそれは言い出せなかった。多分できないし。
 そんな風に歩いているうちに、視界の先に近藤さんの家が見えてきた。僕らの散歩コースでは近藤さんの家のところを左に曲がる。そうすると季節ごとに綺麗な花が咲いている公園の横を通ることができるのだ。市役所へは、近藤さんの家のところで曲がらず、まっすぐ行った方が近い。そういえば何度も家の前を通っているのに、いまだに近藤さんを見たことがないなあ。
 近藤さんの家がどんどん近づいている。僕らがどんどん歩いているから当たり前であるのだが、それにしても元妻は歩く速さを一切落とさない。僕はどんどんそわそわしてきた。近藤さんの家のところで曲がらなかったら、市役所はすぐそこなのだ。実際は左に曲がったところで十分も変わらないのだけれど、たどり着いたら公式に、今後一切夫婦ではなくなってしまうと思うと大きな違いに感じた。もう実質夫婦ではないというのに。
 近藤さんの家、庭から若い男女の笑い声が聞こえる。ちらりと目をやると、僕らより十は若そうな男女、夫婦かしら、が仲よく洗濯物を干していた。あれが近藤さんか、と思ったら表札には春野と刻まれていた。数ヶ月歩いていないから場所を間違えたかしら、と周囲を見渡す。間違いない、ここは近藤さんの家の場所である。近藤さんは、春野さんになったのだな。ふざけながらシーツを広げている若い夫婦を、わざわざ首を斜め後ろまで向けて眺めながら心の中でつぶやいた。
 前を向くと、元妻は近藤さん、いや春野さんの家をまっすぐ突っ切り、田中さんの家に差し掛かろうとしていた。そういえば田中さんも大きな犬を飼っていて、何度か吠えられて元妻が飛びのく場面を見たことがあったな。そうだ、それで僕たちは近藤さんの家のところで曲がるようになったのだった。
「あのさ、あのさ」
 一度、あのさ、と口に出したがあまりの音量の小ささのため元妻に全く届かなかったので二度言った。妻は少しだけ歩く速さを落としたが、こちらには少ししか首を向けてくれなかった。
「こっちから行かない?」
 僕は公園の横を通る方の道を指した。元妻は立ち止まり、ため息をついた。そしてだるそうに引き返してきて、僕の方を見ることもなく公園のある方の道に突入した。まさに、突入というのにふさわしい加速と速さであった。
 僕は、元妻は少し微笑んで「全く、小さい男ね」とか言ったことにして、その後をついて行く。あ、その場合言ったのは元妻ではなく、妻なのかな。
 妻の真横に並んでみた。桜が散っていたらさぞかし情景描写になったことだろうが、公園の桜はまだつぼみだった。
 妻はしばらく何も言わなかったが、公園を通り過ぎる頃にぼそりと言った。
「ポスト妻だったら、私は何か現象とか状況みたいじゃない?」
 何の話かわからなかったので何も答えなかった。
 このペースだと、市役所まであと八分くらいだ。

()

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?