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コアラとパンダ

「コアラはユーカリ、パンダはササ。コアラはユーカリ、パンダはササ」

他に誰も歩いていない夕方の住宅街にある丘を登りながら口ずさんだ。これはわたしが小さい頃、パンダとコアラの食べる草を混同していたときに生み出した歌で、口ずさんでいると軽やかで愉快な気持ちになるものだから大人になってもしばしば歌っているものだ。そういえばササは見たことがあるけれど、ユーカリはどんな形をしているのかよく知らない。逆に、ユーカリに毒があるというのは聞いたことがあって知っているけれど、ササに毒があるのかどうかはよく知らない。コアラもパンダも姿はぼんやりイメージできるけれど、写真や実物を見ずに絵に描こうと思ったら絶対に無理だ。

毎日あがっているこの坂道も、もし引っ越して何年か後にあがろうとしたら、その入り口にも辿り着けないかもしれない。運よく辿り着けたとしても、それは全く違う坂を登っているのと同じくらい新鮮な道になっているかもしれない。テレビなんかで久々に故郷を訪れた芸能人が「全然変わっていない、懐かしい」などと言うのがよくあるが、あれは嘘だとわたしは思う。知っているはずだという思い込みと、全く知らないのと同じくらい新鮮だという現実との差が大きい時、人はそれを「懐かしさ」と錯覚するのだろうか。

坂のてっぺんからは、斜面に沿って、さらにはその奥の平野にまで住宅の屋根が密集するのを見渡せた。ドラマや映画では、しばしばこういう丘から見える地平線に夕日が沈むのが見えるけれど、ここはそうではなかった。西側にはさらに高くまで続く山の断面がそびえており、太陽はその山に隠れていく。坂を登り終えた息を整えるのも兼ねて、太陽の沈まない方向に広がるわが町を見下ろした。カラフルなはずの屋根の色を判別できない暗さになり始める頃だった。いくつかの屋根に設置された太陽光発電のパネルが本日最後の入射光を跳ね返して輝いていた。

さて反対側にくだり始めようかと気合を入れたその時、進もうとした方向からトラックが進んできた。トラックはほとんど道路と同じ幅で、まるで低い壁が迫ってきているようだった。

道にトラックを避けるための隙間はなかったが、トラックの動きに合わせて来た道をくだっていくのも嫌だった。束の間迷った後、わたしはガードレールを越えた外側、道の淵に立つことにした。眼下に見える屋根の凹凸が針山地獄の針のように見えた。

身体を道路の向きに翻しながらレールをまたぐ。

トラックはわたしがねられない位置に移動したのを認めると徐々に速度を上げながら進んだ。すれ違う時、運転手がこちらを向いた。その際、口角をあげて歯を覗かせたのだが、その姿にわたしは思わず声をあげてしまった。見えた全ての歯は鋭利に尖っていて、前方、つまり彼の顔が向いたわたしの方に突き出すように生えていた。

わたしが呆気にとられている間にトラックは過ぎようとしたが、マフラーから吐き出される異常な量の煙が再びわたしを驚かせた。わたしは動揺でバランスを崩してしまい、うまくレールに捕まり直すこともできずに崖の方に傾いた。

一瞬にしてトラックのエンジン音も、カラスの鳴く声も、風が木の葉を揺らす音も、一切がやんだ。変にゆっくり風景は空だけになり、その後天地が逆転した。先程眼下に広がっていた屋根の集合が、だんだん近づいてきた。わたしはこの後に自分がむかえる結末を悟った。恐怖が湧かないわけではなかったが、それはなんだか遠くの方にあるような気がした。それどころか、死ぬときは走馬灯で人生のハイライトがあるのだっけ、と呑気な考えすら浮かんだ。

だんだん意識が遠のいていく。まるで劇場で開演直前の溶暗の中にいるようだった。わたしは果たしてどんな人生を送ってきたのだったかしら。これから見えてくる過去の光景を楽しみに待った。しかし、期待していたものが脳裏に浮かんでくることはなかった。

葉のついた枝が高く積まれている。その山を挟んで、パンダとコアラぺたんと座っている。それぞれは、枝葉の山から器用に自分の食べる種類のものだけを引き抜いては齧る。時折間違った枝を掴むと、それは山を飛び越して反対側にいる動物の方へ放った。一体この景色のどこにわたしがいるというのだろう。

動物たちは凄まじい勢いで枝を抜いては食み、枝葉の山はどんどん低くなり、裾野は広がっていった。やがて山の中から黒くて丸いものが覗く。まもなく、それが人間の頭部であることがわかった。それは五歳くらいの女の子で、自分の三つ編みの髪を掴んでムスッとしていた。わたしはその子の格好と表情を見たことがあった。

実家のリビングの棚に置かれていた写真、父に結んでもらった髪が気に入らずにほどこうとしている幼いわたしが写っている。その子が、まったく同じ服と表情で枝葉の山から出てきた。幼少の自分が登場するということは、やはりこの見覚えのない光景も、死ぬ前に見る走馬灯というやつなのだろうか。

上半身が全て現れたあたりで、少女は自分の髪から手を離した。少女はまだまだたくさんある枝の中から一本を掴み取ると、そこについている葉を口に入れた。途端に少女の顔色が悪くなり、目には涙が浮かんだ。まもなくして、少女は枝葉の山の上に嘔吐した。パンダとコアラはそれを見て不快そうにした。表情の変化を読み取れたわけではなかったが、きっとそうだと思った。

ここで、再び意識が遠のいて光景は溶暗する。一体これはなんだったのか。

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気がつくと、わたしは布団の上にいた。最初に目に映ったのは蛍光灯と知らない白い天井……ではなく電灯から垂れた紐と、その先についた見覚えのあるマスコットだった。それはわたしの部屋であった。わたしは夢を見ていたのだろうか……。

口の中で胃酸の味がした。しかし、どこにも吐いた形跡はなかった。

時計を見ると午後5時。いつも買い物に行く時間だった。釈然としないままわたしは布団から出て、支度をした。

先程夢に見た坂のてっぺんまで来た。落ち着かない心地がした。一切を見ずに足早に通り過ぎようと思ったが、あるものが目に入り気を取られてしまった。

道の淵、誰かの吐瀉物だった。夢でわたしがバランスを崩して転落した位置である。瞬時に、夢で少女が嘔吐していたこと、つい先刻目覚めた時に口の中で胃酸の味がしたことが思い出された。

坂の向こうから、車のクラクションが鳴った。吐瀉物から目をそらして音の方を向くと、道幅ぴったりのトラックがゆっくり迫っていた。

わたしは迷わず来た道を引き返そうと向きを変えた。すると、向いた方向からも道幅ぴったりのトラックがゆっくり進んできていた。

どうしたものかと両のトラックをチラチラ交互に見る。そして、トラックの運転席に座っているものを認識できたとき、わたしは得体の知れない感覚に支配された。

トラックを運転している人の頭部は、それぞれパンダとコアラであった。彼ら?は葉のついた枝をモゴモゴ食みながらゆっくり車を進ませる。

わたしは胃のあたりから何かがせりあがってくるのを感じた。


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