406号室のベランダで #28

〈これまでのあらすじ〉

東海林航の歪んだ愛情にあてられていたことを知った中本愛姫は航に電話をかけた。愛姫がもう関わりたくないことを告げると航は思い詰めたように言葉を捲し立てた。最後には愛姫にしては珍しく感情的になって別れを告げ、電話を切った。

それからしばらくは平穏に過ぎ、やがて梅雨も明けたある夜。愛姫はなにかに惹かれるように久しぶりに月光の差すベランダに出た。すると隣のベランダにも……

ーーーーーー

「やっぱり。来てくれるような気がしたんだ」

梅雨明けの風に誘われたひかるに愛姫の心は持っていかれた。

「飲む?今日はまだ私もそんな酔ってないよ」

「もらいます」

愛姫が差し出した缶を受け取るとき、ひかるは頬を緩めたがその微笑みは少し硬かった。そしてひかるの視線は星に向けられた。自分の心の中の何かと対話するように見上げるひかるの顔を見ているとふたりのベランダの仕切りがもどかしくなった。

「ねぇ、そっちにいってもいい?」

愛姫のほうを向いて何か言いかけたひかるを遮るように言った。ひかるは少し戸惑った表情を浮かべた。

「え……」

「だめ?」

「いいです」

愛姫の頬は思わず緩んだ。

「えへへ、ちょっと待っててね」

愛姫の足は踊る心にあおられてスキップしそうになりながら玄関へと進む。ひかるの部屋に入ると部屋の中まで月明かりが作ったひかるの影が伸びていた。その影を辿るようにひかるのいるベランダへと向かう。

「よっと。おまたせ」

ひかるは何も言わず俯いたままだった。

「どうかした?」

「いえ、何も……」

月明かりの差す小さなベランダ。夏と呼ぶにはまだ少し早い、梅雨明けのやさしい風が吹き抜けるその空間にはふたりだけの静かな時間がゆっくりと流れていた。

誰も立ち入ることのできないその空間に愛姫は小さくも深い幸せを感じていた。愛姫の手の中の缶はとっくの前に空になり、先ほどまで漂っていたアルコールの香りももうどこかへ流れていった。

張りつめているわけでもなく、弛緩しているわけでもなく、止まっているわけでも漂っているわけでもないふたりの間の不思議な空気の中に、小さな声が突然、しかしやさしく割り込んできた。

「…………好きです」

漏れるように聞こえたひかるの声は愛姫の心まで確かに届いた。愛姫の心は動揺することもなく、焦ることもなくただやさしく星を見上げたままの愛姫にただ一つの言葉を呟かせた。

「……うん」

「僕と付き合ってくれませんか」

ひかるのそのセリフはふたりの間の空気を温かくしてその温もりはふたりの心にも伝播した。温かくなった愛姫の心には小さな照れと大きな喜びが広がっていった。

期待があったのか、それともこの未来を知っていたのか愛姫自身もわからなかったが、愛姫はゆっくりとひかるのほうを振り返りながらやさしく笑った。

「えへへ……はい、よろしくお願いします」

「ほんまに!やった……っああー!」

ひかるが喜びの声を上げる。その姿を見て愛姫も思わず笑ってしまう。

「はは、近所迷惑だよ?」

「すんません、うれしすぎて!」

「私もだよ?」

「そんで、あのなかもとさ、ん……」

愛姫は咄嗟に唇を重ねてひかるの言葉を遮った。ひかるには『なかもとさん』と呼ばれたくなかった。

「愛姫って呼んで…………」

そういうともう一度ふたりは思いを重ね合わせるようにキスをした。


その週末、愛姫はひかるとその友人の唯人と三人でひかるの誕生日パーティーをした。愛姫はとても久しぶりに笑った気がした。

それほどまでに幸せな時間だったが、やがて夜も更け唯人は帰った。愛姫は食事の片づけをして、ひかるは風呂に入っていた時テーブルの上のスマホが震えた。


愛姫が目を向けると震えたのは愛姫のスマホだった。


<続>

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