◯◯◯力の先にあるもの
私は以前、ある予備校の小論文の添削講師を
していたことがある。講師と言っても講義を
するのではなく、あくまでも学生が書いた小
論文を規定のルールにもとづいて添削するの
である。
そのとき、少し疑問に思ったのは、こんな答
えのない試験で選抜することに意味があるの
かということ。大学受験は文字通り選抜する
ために行われるものだから、こんな曖昧な試
験で選ばれるのは気の毒だと思った。
しかし、こうあるべきとするストーリーは、
すでに出来上がっていた。予備校には、大学
側から、あらかじめ求められる内容が提示さ
れていたようで、それを試験当日にしっかり
と書ける人を求めています、と明確に示され
ていた。
先日、新卒採用の面接において、ある学生が
TOEICの点数を履歴書に書いていたのだが、
それが驚くほど低い点数だった。少し躊躇は
したが、理由を聞くと「TOEICを受験したこ
とが面接官の印象に残る」と就職課から言わ
れたそうだ。そういえば、私の娘が東北復興
のボランティアに行ったときに先輩から
ボランティアをしたことは就職の面接で有利
だと言われたと聞いた。かつて有名大学出身
者と聞けば、その人がどのような能力を持っ
ているかを知らなくてもきっと「頭が良い」
と思われていた。だが、高校卒業する人の約
六割が大学に行く時代になり、会社に選ばれ
るためには“◯◯◯力”を身につけなければ
ならないらしい。英語に始まり簿記や社労士、
漢字検定、さらに、リーダーシップや公共性
など、人間としての資質まで形にしないと認
められない。
ある企業などは「女子力」という曖昧な基準
まで選考基準になっているというから驚きだ。
入社してからの評価も、そういう観点がない
とも限らない。私もできるだけ、実力で実行
した業務内容を対象とするよう努力している
つもりではあるが、印象や期待感が全くない
とは言い切れない。それも実力の内だという
声もあるが、そう考えるととりあえずTOEIC
を受けた、ボランティアはやったということ
を否定することができるだろうか。むしろ、
そういうカタチになることでしか判断できな
いことが問題なのかもしれない。
21世紀は「虚力」の時代だと言われている。
「虚力」とは実力以外の力で、それが社会や
世の中を渡って行く能力だと評する声もある。
「段取力」や「コミュニケーション力」など
の書籍が本屋の棚を占めて久しい。何とかこ
ういう力をつけて世の中を渡って行こうとす
るのも分からなくもないが、むしろそういう
力は、実務を通じて身につけるものだ。書籍
だけを読んでできるものだとは思えない。
これからの世の中は、自分を磨いて能力を身
につけ、いろいろな生き方を模索するべきだ
ろう。もちろん他人の評価も必要なことだが、
それ以上に自分の本当の実力を知った人間し
か生き残って行けない気がするからだ。
そう考えると、あの小保方さんには、本当の
実力があったのかとても気になる。もしかし
て「◯◯◯力」で組織の中で生き抜いてきた
のだったら、STAP細胞の真偽は“闇”のなか
にあると言わざるを得ない。ましてや話題に
なった盲目の作曲家の、ゴーストライターが
書いた曲を自分のものとして発表する「作為
力」に、逆境を乗り越えるストーリーを喜ぶ
私たちの「感動力」が引き起こしたような悲
劇にならないことを願っている。
今回は単なる未熟さ故のミスであり、細胞
の存在は真実、という結論を期待している。
これも
感動したがる悪い癖なのかもしれない。
* * *
最近、社内研修の企画でプレゼンした際
役員から出てきた反応は
「知識だけ詰め込んだ頭でっかちにならないか」
という感想に近い言葉
人間の本質は
知識が先か
行動が先か
と問われれば
知識でしょう、と答える。
闇雲に現場に出て経験を積んで
そこから何かを学べるのはいいが
学んだ知識がすべてのケーススタディになり
そこから抜け出すことが困難になる。
体系的な知識を得ることができれば
現場で上手くいったことはあくまでも一例で
多様な展開がまだまだあると思える。
そう想像できるからだ。
こういうやり取りはどこにでもあり
やはり現場第一主義が罷り通る。
私は分かりやすいものやことほど
危ういものはないと思っているので
こういう発言はとても恣意的に感じる。
どちらも大事なことは分かっているが
どちらかと言えば
という論争には与しないスタンスでいたい。
それさえも
自分で考えて選べなければ
どちらという論争にしかならないからだ。
#あの時のジブン |31
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