見出し画像

パクツイの先にあるミライ

連休中にNHKスペシャルで
「宝塚トップ伝説〜熱狂の100年〜」という
番組を観た。

世界的にも例がない“未婚女性”だけで構成され
る宝塚歌劇団はこの4月に100周年を迎えた。
その中で常に舞台の主役を演じ、誰よりも目立
つ衣装と大きな羽根を背負う独特のスタイルで
ピラミッド組織の頂点に君臨するのが<男役ト
ップスター>達だ。そして、必ずと言っていい
ほど、人気絶頂の中で<卒業>を迎え、新たな
世界に羽ばたいていくシステムも独特だ。

番組では、兵庫県にある宝塚大劇場でのトップ
スターとファンのやりとりが映し出されていた
が、私も東京で東宝に勤めていたとき、いつも
会社帰りに熱狂的なファンの姿に圧倒されなが
ら、日比谷界隈を歩いたことを思い出した。

番組では、花・月・雪・星・宙それぞれ各組の
5人のトップスターに密着して特集していたが
それぞれが個性的で面白かった。

花組の蘭寿とむさんには、男役としての素養と
堂々とここまで上り詰めてきた圧倒的な力を感
じずにはいられなかった。また雪組の荘一帆さ
んは<組>を2回も変わり、ようやく頂点に立
った苦労人としての凛とした姿があり、宙組の
凰稀かなめさんは、伝統的な舞台である名作
「ベルサイユのばら」を演じるにあたり先輩た
ちから厳しい教えを受けながらも、自分のもの
にしようとする迫力を感じた。

前日には世界卓球選手権の女子チームの試合も
観ていたので、余計、女性たちの輝く姿に圧倒
されてしまった
のかもしれない。とにかく自分
との闘いと、周囲からの期待を背負い、そして
観るものを感動させるエネルギーは、その身体
から“湯気”が立つような気がしたくらいだ。

そもそも、宝塚の舞台で演じられるのは、伝統
的なものが多い。新作もあるが、定番を何人も
の主役たちが、それぞれのカラーで、それぞれ
の時代に求められる何かをアレンジして、発表
してきた。それは果たして、オリジナルだと言
ってもいいのだろうか。

江戸時代には近松門左衛門は、ライバルと互い
に脚本を利用しながら切磋琢磨しながら作品を
創作していたというし、狩野派の絵師は独創よ
り摸倣が奨励されるなど、お手本となるものに
対して尊敬の念
を持って利用していたとえる。

そう考えれば、明治以降の近代日本はほとんど
が西欧文明のモノマネであり、それを工夫して
新たな機能を付け加え、あたかも自分たちが作
り上げたような顔をしているが、そうではない
だろう。そう考えると、宝塚歌劇も元々は西欧
のオペラやミュージカルを起源としていること
は否めない。

最近ではインターネットの普及によって、あら
ゆるものがコピペされるようになった。

ツイッターでは、他人の文章を丸写しした
<パクリツイート=パクツイ>が横行して問題
になっているらしい。私も原稿を書くとき
には、
読んだ書籍の文章がまったく頭の中に残ってい
ないとは言えない。

それらの行為の問題は他で論ずるとして、ここ
で確認したいのは、そもそもオリジナリティと
はどういうものなのか、という根本的なことへ
の問いかけだ。

誤解を恐れずに言えば、私はそれがオリジナル
を真似た摸倣であったとしても、新たな価値を
生み出すものであれば、それをオリジナリティ
と言っても差し支えない
と考える。この世に生
きてきて、今まで徹頭徹尾すべてが自分のオリ
ジナルだったモノやコトはあり得ないからだ。
人間が人間として生活している以上、発想や行
為、創作などはすべて何かに由来しているし、
摸倣という行為がなければ、きっと新たな価値
は生まれなかった
だろうから。

ただ、大切なことは、そこに尊敬の念があり、
自分を啓蒙してくれたことへの感謝があるかで
はないか。
ただ摸倣して、本来その利益を受け
取るべき人の権利を奪うことは犯罪である。

こう書きながら、その境界線を判断することが
かなり困難なことであることを感じずにはいら
れない。あえて言えば、見つけ出した原石を批
判的に見て、そこに足りない何かを見つけ出し
たとき、初めてそれを摸倣し、発展させる権利
を得たことにしてはどうだろうか。これくらい
しか今の私には言えない。

「ベルサイユのばら」を演じることになった
凰稀かなめさんは、1975年にその舞台を初演
で演じて好評を博した榛名由梨さんに、直に
指導を受けた。まさにオリジナルに触れて、
オリジナリティを見つけ出そうとする行為と
言えるのではないか。

最低限のマナーがあり、そこに共感と尊敬の念
を抱き、新たな創作への敬意と意欲を持つこと
こそ、コピペ時代に生きる私たちの大切なルー
ルだと思う。

* * *

新卒で就職した会社は東宝の関連会社で
3年目に出向して日比谷の映画館が勤務地に
なった。

そこにあったのが
塚劇場=<東宝>だった。

お芝居のある日はファンが詰め掛けるが
混乱はない。

そこには自主的に規律を持った
集団によって取り仕切られて
整然と推しを見守る空間が生み出される。

最近、いろいろな話題が出ているが
身近にいた人間にとって
その聖域は日本のエンターテイメントにとって
必要不可欠な存在
だと感じている。

さて
当時のコピペの問題は
今や生成AIの誕生によって
より巧妙かつ精緻になったと思う。

もはや映像でさえも見分けがつかず
虚構の世界との境界がさらに曖昧になった。

功罪は評論家に任せるとして
誰もがクリエイターになれて
創造的な仕事が特定の人たちだけの
ものではなくなったことだけは確かだ。


noteやYouTube は
学歴も資格も必要なく
アイデア次第でテレビなどよりも
メディアとしての影響力は大きい。

絵が上手に描けなくても
歌が上手に歌えなくても
文章が上手に書けなくても
楽器が上手く奏でられなくても
アイデアさえあれば
誰もがクリエイターになれる時代に
間に合って良かった。


著作権や特許で囲い込んで
特定の人が利益を得るビジネスのしくみも
すでに絶対的なものではない。

大衆が混沌とした状況の中で
お互いに感性をぶつけ合って生み出した
コンテンツこそ人類共通の財産だ

と言える日が来るような気がしている。

そう考えると
<パクツイ>はこの時代の到来の入り口
だったと思わずにいられない。

ネットの世界は
特別な能力のない普通のおぢさんに訪れた
魔法の杖なのだ。

#あの時のジブン |09


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?