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「オープンレター」講解 【しらなみのかげ特別号】


・はじめに


……「女性差別的文化を脱するために」と言われたら、凡そ反対する者など居ないだろうし、反対する理由を見付けることなど出来ないだろう−「差別に反対」しているのだから、その「内実」を具に見ることなど、必要無いのではないか−そうした真摯な思いが、この現代文明先進世界を生きる知識階層、すなわち「研究・教育・言論・教育にかかわるすべての人」の中の一部にあったに相違無い……

 

 

2021年4月4日、「オープンレター:女性差別的文化を脱するために」https://sites.google.com/view/againstm/home)は、江湖に問われた。

それ程総人口も多くない筈の業界人から千三百余筆もの賛同署名が集まったのだから、その様に述べても良いであろう。

人気歴史学者呉座勇一氏の英文学者北村紗衣氏に対する「中傷」或いは「他の多くの女性への中傷を含む性差別的な発言」が明るみに出されるという事態の中、男性中心主義の生み出す抑圧的な社会構造に対し、鋭敏な人権感覚を以て問題意識を向ける人々が大勢集まったのである。

 

 

しかし本当に、署名者達はあの文章を「読んだ」上で署名したのだろうか。

かの文章を読んだ私には、甚だ疑問なのである。もしも精読した上で署名したのならば、あの文章の中に明確に書かれている内容から「キャンセル」の匂いを感じ取った上でそうしているとしか思えないからである。

 

賢き人々は本当に「キャンセル」に賛同しているのだろうか。それとも、「差別反対」という看板だけを見て碌に読まずに署名したのだろうか。将又、読解力が欠けていて(「研究・教育・言論・教育にかかわる」にも拘らず!)あの文章の「意図」を読み取れなかったのだろうか。かの文章を読んだ私には、甚だ疑問なのである。

 

 

しかし驚くべきことに、当のレターを起草し世に送り出した呼び掛け人達も、「読んだ」上で名前を記した筈の署名者達の名前を注意深く「見て」いなかったのである。

 

 

レターが出されてから凡そ9ヶ月余の歳月が流れ、年が明けて今月になって、その署名の「数」は額面通りに受け取ってはならないものであることが次々と発覚したのである。

賛同署名の中に、古谷経衡氏やワタセユウヤ氏、高野秀行氏など本人の許可無く名前が載せられている人が数名名乗りを上げることになった。或いは恐らく誤記であると思われる「松本松本」氏が記載されていることが発見されたり、将又架空の大学「国際信州学院大学」の、更にその設定の中に存在しない「社会学部」学部生の署名が指摘されたりと、いたずら目的らしき署名が多く混じっていることが明らかになった。

 

社会正義の実現に燃えるオープンレターの熱意にも拘らず、個人情報に関わるその名簿管理は余りの杜撰だったのである。女性差別に反対する知識人達の赤誠は、基本的な事務能力を伴わなかったということである。

 

その実態から考えるに不思議で仕方が無いのは、著名なネット論客青識亜論氏が理念に共感し署名したと当初より本人は宣言しているにも拘らず、遂に名前が記載されることがなかったという事実である。一連の経緯を見るにつけても、青識亜論氏のみ除外されたとしか思えないのだが、氏は「研究・教育・言論・教育にかかわるすべての人」ではないのだろうか。

兎も角も、きっとそこだけはきちんと「見ていた」のだろう。

 

 

しかし、私はここで先の疑問を繰り返さざるを得ない。

「オープンレター:女性差別的文化を脱するために」の「内実」を、「研究・教育・言論・教育にかかわる」筈の署名者達は本当に「読んだ」のか、と。

今から私がテクストを読解しながら述べるように、若しもオープンレターの内容を読んで内容を理解した上で署名したのだとすれば、それは、「キャンセル」に賛同する者達特有の、あの偽善を含んだ悪辣さの極みであるとしか言いようが無い。若しも読んでいないで署名したのだとすれば、それは「差別はいけません」という素朴に過ぎる善意から来る愚劣の極みであるか、業界内部での保身の為に行う情けないアリバイ証明であり付和雷同であるとしか言いようが無い。或いは、読んだにも拘らず、単に読解力が無かったのかも知れない。

 

 

何れにせよ、「研究・教育・言論・教育にかかわる」人間として如何なものであろうか。偽善を塗した悪意か、ナイーブさか、自己保身か、無能力か、何れにせよ、如何なものであろうか。

そして、かのレターを世に送り出した呼び掛け人達の悪意たるや、如何許りのものであろうか。

 

 

では実際に、オープンレターを読んでみようではないか。

 

 

・精読「オープンレター」

 

 

「先日、著名な日本史研究者である呉座勇一氏が、大河ドラマの時代考証から降板したことが報じられました。原因となったのは、呉座氏がツイッターの非公開アカウントで過去数年にわたって一人の女性研究者(このレターの差出人の一人である北村紗衣)に中傷を続けていたこと、また他の多くの女性への中傷を含む性差別的な発言を続けていたことが明るみに出たことでした。これによって、呉座氏は所属先である国際日本文化研究センターから厳重注意を受けています。」 

これは経緯説明である。問題は、呉座氏の北村氏に対する発言が「中傷」であったのか、そして呉座氏の発言が「性差別的」であったのか、であるが、ここでは取り敢えず本文の検討を行う故、その検討は割愛させて頂く。呉座氏自身のツイートが消去されている為、何分にも正確な調査は困難である。「過去数年にわたって」という期間の問題も、或いはここに記されてはいないが頻度の問題も、氏のツイートが消去されている今、正確な調査は困難であろう。その他の事実関係は、調べて頂ければ分かるように事実である。

 

 

「このオープンレターは、この問題について背景にある仕組みをより深く考え、同様の問題が繰り返されぬよう行動することを、広く研究・教育・言論・メディアにかかわる人びとに呼びかけるものです。」

これはオープンレターの意図を示す文言である。ここで「この問題について背景にある仕組み」を呼ばれているものが、このオープンレターのタイトルでもある「女性差別的文化」である。そして、それを深く考えることで「同様の問題」つまり「呉座氏の中傷ないしは性差別的な発言」と起草者が呼ぶものが「繰り返されぬよう行動すること」を呼び掛けている。ここでのポイントは、「広く研究・教育・言論・メディアにかかわる人びと」に「行動すること」を呼び掛けていることであるだろう。後にその行動の具体的な内実が説かれるので、この点は留意されたい。

 

 

「私たちは、呉座氏のおこなってきた数々の中傷と差別的発言について当然ながら大変悪質なものであると考えますが、同時に、この問題の原因は呉座氏個人の資質に帰せられるべきものではないとも考えています。
 呉座氏の発言の中には、単なる「独り言」としてではなく、フォロワーたちとのあいだで交わされる「会話」やパターン化された「かけあい」の中で産出されたものが多くありました。たとえば誰かが、性差別的な表現に対して声を上げることを「行き過ぎたフェミニズムの主張」であるかのように戯画化して批判すると、別の誰かが「○○さんの悪口はやめろ」とリプライすることがあります。こうしたやりとりは、当該個人を貶めるために、「戯画化された主張を特定個人と結びつける」手法としてパターン化されています。そこには、中傷や差別的発言を、「お決まりの遊び」として仲間うちで楽しむ文化が存在していたのです。実際には、呉座氏の発言は大きな影響力を持っており、この「仲間うちの遊び」は3000人以上のフォロワーの目に見える形でおこなわれていたものでした。つまりその「遊び」の文化は、中傷や差別的発言をいわば公衆の面前でおこなわせてしまうものであり、そのことが今回の問題の背景にあると私たちは考えます。」

 

前段の要点は、「呉座氏のおこなってきた数々の中傷と差別的発言」が「大変悪質なもの」とされているが、具体的にどのような中傷と差別的発言であったかについては聊かも検討されていないことであろう。その検討がなされることなく、「この問題の原因は呉座氏個人の資質に帰せられるべきものではない」として、責任の範囲を拡大している。それは、前段で述べられた「この問題について背景にある仕組み」すなわち「女性差別的文化」に向けられることになる。

 

後段は、その解説である。

まず呉座氏の発言を「フォロワーたちとのあいだで交わされる「会話」やパターン化された「かけあい」の中で産出された」ものとして分析し、その典型的な事例が示されている。

次に、そこにおいてパターン化されているという「戯画化された主張を特定個人と結びつける」手法を批判し、そこに横たわる「中傷や差別的発言を、「お決まりの遊び」として仲間うちで楽しむ文化」(すなわちこれが「女性差別的文化」である)を告発する、という順に議論が展開されている。そして、それが「仲間うちの遊び」が3000人以上のフォロワーという「公衆の面前」で行われたことを指摘している。

 

最大のポイントは、「会話」の中でなされる「かけあい」の「パターン化」が(「行き過ぎたフェミニズムの主張」というような)「戯画化」と並置して結び付けられてあることであり、そして、これが「中傷や差別的発言」であるとされていることだろう。糾弾されているのは、特定の「仲間うち」の中で「おきまりの遊び」として交わされる「パターン化」「戯画化」であり、それが特定個人と結び付けること(起草者が「中傷」と呼ぶもの)なのである。

ここから、性差別的な表現に対する告発を、「仲間うち」で戯画化して定型化されたやりとりの中で特定個人に結び付ける慣行を「女性差別的文化」と呼んでいることが理解出来る。そして、それがツイッターという公衆の面前で行われていることを問題視している。

 

煎じ詰めて言えば、「戯画化」という事柄からも分かるように、これは〈風刺文化の否定〉、より正確に言えば、性差別的な表現への告発に対する〈風刺文化の否定〉である。

何となれば、上記の「女性差別的文化」と呼ばれているものの内実は、(「性差別的な表現に対して声を上げる」というこの問題に特殊な点を除けば)そのまま風刺なり皮肉なりの定義とすることも出来るだろう。起草者の筆致を顧みると、その風刺なり皮肉なりを、「中傷や差別的表現」であるとそのままトレースしているように思える。これは換言すれば、「性差別的な表現に対して声を上げる」ことに対する風刺や皮肉は「中傷や差別的表現」であるから許されない、ということである。

 

しかも、その判定に対する吟味は許されていない。

何となれば本文には、「会話」やパターン化された「かけあい」、そして「性差別的な表現に対して声を上げる」ことの具体的内容とその問題点は一切書かれていない。呉座氏の発言の何処がどう問題であるか、些かの検討も無い。これは、その断定的な言辞からして、暗黙裡の内に、起草者達が「中傷や性差別的表現」であると見做すものは全てそれに該当すると言っても良いことになっている。辛うじて例示されているのは、「行き過ぎたフェミニズムの主張」に対する「○○さんの悪口はやめろ」という「かけあい」だが、これが「中傷や性差別的表現」と果たして言えるのだろうか。そうした皮肉めいた冷笑や嘲笑は社会通念上「中傷や性差別的表現」に該当するとは思われない。それらはまさに〈風刺文化〉と言えるものの定型表現とも言えるものであるが、それを真っ向から否定しているのである。

 

現に、呉座氏の発言が(何と一つの引用も、勿論その内容の検討も提出されずに!)「中傷や性差別的表現」であると初めから断言されている点にその何よりの証拠を見出すことが出来るだろう。それが〈風刺文化の否定〉であり、その風刺を楽しむ「仲間うち」への否定であることは言を俟たない。

 

ここで〈風刺文化〉の否定の裏面にあるのが、実の所、オープンレター呼び掛け人達による〈解釈権の独占〉であることが明々白々なものとして浮かび上がってくる。このことは、次の段に見る如く、表現形式に於ける〈固定化された社会観〉に根差している。

 

「日本語圏では以前から、ツイッターを中心にSNSやブログにおいて、性差別に反対する女性の発言を戯画化し揶揄すると同時に、男性のほうこそ被害者であると反発するためのコミュニケーション様式が見られました。たとえば性差別的な表現に対する女性たちからの批判を「お気持ち」と揶揄するのはその典型です。今回明らかになった呉座氏の発言も、大なり小なりそうしたコミュニケーション様式の影響を受けていたと考えられます。そこでは、差別をめぐる問題提起や議論が容易にからかいの対象となるばかりでなく、場合によっては特定の女性個人に対する攻撃までおこなわれる一方で、自分たちこそが被害者であるという認識によってそうした振る舞いが正当化され、そうした問題点を認識することが難しくなります。これにより、差別的な言動へのハードルが極めて低くなってしまうという特徴があるのです。」

この段落では、「性差別に反対する女性の発言を戯画化し揶揄すると同時に、男性のほうこそ被害者であると反発するためのコミュニケーション様式」が批判されている。

要点は、「男性のほうこそ被害者である」という見方の否定、併せてその「コミュニケーション様式」乃至はそこに於ける「お気持ち」などに語彙に対する否定である。ここで暗黙裏に前提されているのは、「性差別」に於いて男性は常に加害者側であって女性は常に被害者である、という社会的な図式であろう。本文から分かるように、それに対する「反発」は(まして況や、「性差別的な表現」に対する女性たちからの批判への「お気持ち」などの揶揄などは到底!)許されていない。その図式を批判すること、或いは「お気持ち」として風刺的にその図式を批判すること自体が、初めから段落の最後の文から理解出来る様に「差別的な言動」であるとして初めから封じ込まれている。

 

私自身も幾度か提起してきた所謂〈弱者男性論〉などは、起草者の思想によればその「コミュニケーション様式」からして「差別的な言動」に数えられることになる。初めからその回路を塞がれているのである。言論に携わる者は必ず、女性は被差別階級、男性は差別階級という起草者の根底的な社会観を共有せねばならないというのである。

 

かくして、〈風刺文化の否定〉と〈解釈権の独占〉が、〈固定化された社会観〉に於いて結合することになる。

このことは、起草者の言を見れば明らかである。そこでは、「男性のほうこそ被害者である」と反発する「コミュニケーション様式」に於いては、「差別をめぐる問題提起や議論が容易にからかいの対象となるばかりでなく、場合によっては特定の女性個人に対する攻撃までおこなわれる一方で、自分たちこそが被害者であるという認識によってそうした振る舞いが正当化され、そうした問題点を認識することが難しく」なるとされている。ここではまさに、言葉の用い方など「コミュニケーション様式」と被害−加害関係に関する異なる〈社会観〉の双方が、相互連関的なものであるとして一挙に否定されている。

 

詰まる所その本意は、表現と内容の双方に於いて、自分達と異なるものを完全に否定するものである(これが先に〈解釈権の独占〉と私が呼んだものである)。表現だけの検討と意味内容の検討をそれぞれ個別に検討することなどは、一挙に否定されている。その理由は、まさに占有的に〈固定化〉されたその〈社会観〉、つまりはイデオロギーにある。次の段落に於いて、そのことが明瞭に語られる。

 

 

「このような、マジョリティからマイノリティへの攻撃のハードルを下げるコミュニケーション様式は、性差別のみならず、在日コリアンへの差別的言動やそれと関連した日本軍「慰安婦」問題をめぐる歴史修正主義言説、あるいは最近ではトランスジェンダーの人びとへの差別的言動などにおいても同様によく見られるものです。呉座氏自身が、専門家として公的には歴史修正主義を批判しつつ、非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞いをしていたことからも、そうしたコミュニケーション様式の影響力の強さを想像することができるでしょう。」

この段落でまず語られているのは、〈マジョリティ=差別階級−マイノリティ=被差別階級〉構造という社会観の諸々の領域への敷延、というよりも全面化である。ここに、ケースバイケースの余地は無い。個別の問題の切り分けも無く、呉座氏が「専門家として公的には歴史修正主義を批判しつつ、非公開アカウントにおいてはそれに同調するかのような振る舞いをしていた」と一括して記されていること自体が、その何よりの証左である。

 

そして誠に興味深いことのは、起草者が糾弾している当の呉座氏の言動の問題性が、彼自身の主体性に帰せられているのではなく、「そうしたコミュニケーション様式の影響力の強さ」に帰せられている点である。見落としがちな点であるが、人間個人の主体性では無く「コミュニケーション様式」を重視する起草者の〈社会観〉がこの表現に表明されていると言うことが出来る。

そうであるからには、起草者が真に問題であると考えているのは、まさにそうしたコミュニケーション様式を支える社会の在り方になるだろう。

 

 

「他方で今回の一件は、日本のアカデミア、言論業界、メディア業界に根強く残る男性中心主義、すなわち中傷や差別的言動によって女性の正当な参加が困難になっていると同時に、そのことへの抗議に対しては強い「公正さ」が求められるような仕組みのあらわれでもあると私たちは考えます。
 呉座氏とともに中傷や差別的発言をおこない、あるいはそうした発言に同調していた人びとの中には、教育・研究やメディアにかかわる人びとが何人もいました。呉座氏が何年にもわたってそうした発言を続けることができた背景には、これらの人びとには彼の発言をたしなめようとする感覚がなかった、むしろそれを是認し時に一緒に楽しむような空気があった、という重い事実があります。
 それを考えれば、呉座氏の中傷発言を、いち個人の行き過ぎた発言であり氏と中傷された女性研究者とのあいだで解決すべき個人的な問題である、と主張することには大きな問題があります。それは、アカデミアや言論界、メディア業界におけるこのような男性中心主義を見逃してしまうことになるからです。
 同様に、呉座氏の一方的な中傷とそれに対する抗議とがあたかも適正な「議論」「論争」であるかのように扱おうとすることもまた、アカデミアの無自覚な男性中心主義のあらわれだと言えるでしょう。女性研究者への中傷を多くの男性同僚たちが見逃しているような性差別的な状況によって女性研究者たちはしばしば公正で冷静な学術的「議論」「論争」を阻まれてきました。中傷それ自体を「議論」の一環であるかのように扱うことは、そのような中傷が「議論」を成立させない効果をうんできた事実を、隠蔽してしまいます。」

この段落では、起草者の考える真の問題が「日本のアカデミア、言論業界、メディア業界に根強く残る男性中心主義」であると指弾されている。その説く所によれば、それは「中傷や差別的言動によって女性の正当な参加が困難になっていると同時に、そのことへの抗議に対しては強い「公正さ」が求められるような仕組み」であり、そうした「感覚」「空気」である。そしてまた、そうした「感覚」「空気」を共有してきた「教育・研究やメディアにかかわる人びと」の存在が、「重い事実」とされている。

注目すべきは、「そのことへの抗議に対しては強い「公正さ」が求められる」という言明が当オープンレターを提出することの自己弁明になっていることである。ここから、このレターが言うなれば「男性中心主義」という「文化」の、またそうした「文化」の中で生きる人々に対する「公正さ」に対する抗議表明であると起草者自身には理解されていることが読み取れる。

 

この抗議に於ける「強い「公正さ」」とは、何か。

その内容は説明されていない。代わりに説明されているのは、二つの「状況」に対する批判的言明である。

まず呉座氏個人に問題を帰属させることへの否定、そして次に、呉座氏の「中傷」と北村氏の「抗議」という遣り取りを「議論」「論争」であると見做すことへの否定の二点である。

インターネットとアカデミアや言論界を巡る一点目については、既に述べたことの繰り返しになるので一先ず措く。

新規に持ち出された論点は、アカデミアについて述べられた二点目である。女性研究者が「多くの男性同僚たちが見逃しているような性差別的な状況」によって、「しばしば公正で冷静な学術的「議論」「論争」」を阻まれてきたという指摘は、逆から言えば、現行のアカデミアに於ける「議論」「論争」の場から女性が除外されていることを示そうとするものである。そしてここでは、「多くの男性同僚たちが見逃しているような」という言辞から読み取れる如く、そのことは女性研究者自身にしか分からないことである、ということが暗に主張されている。

 

而して「中傷それ自体を「議論」の一環であるかのように扱うことは、そのような中傷が「議論」を成立させない効果をうんできた事実を、隠蔽してしまいます」という言葉でこの段落が締め括られていることを併せて考えるならば、「中傷」なのか「議論」「論争」なのかを決定する権利を持つのは、「女性研究者」だけであることになるだろう。告発されているのは、現状の「議論」「論争」の場である。起草者の主張によれば、「中傷それ自体を「議論」の一環であるかのように扱うこと」と「そのような中傷が「議論」を成立させない効果をうんできた事実」の隠蔽により、言わば二重にその場から女性は排除されているとでも言うのだろう。その二重の連関を打ち破って「公正」な議論や論争の場を形成するのは、何が中傷であって何が「公正で冷静」な議論なのかに対する「女性研究者」の判定(のみ)によるのであり、それに対する批判は(女性研究者により「中傷」であると分類されてしまえば)全て「公正」ではない、ということになる。

このように「公正さ」を否定する〈「公正さ」〉に於いては、例えば、呉座氏の言葉遣いは「中傷」に当たらないのではないか、或いは、呉座氏の言動は別に「性差別的」なものではないのではないか、などという言説は初めからその存在を許されないことになる。それどころか、それもまた、「男性中心主義」の現れとして糾弾されるべき性格を帯びることになる。

 

ここに於いて今まで析出されてきた〈風刺文化の否定〉〈解釈権の独占〉〈固定化された社会観〉が、「女性研究者」というアイデンティティに収斂することになる。要するに、これこそが〈「公正さ」〉、言うなれば〈非常に強い「公正さ」〉の内実だと解釈して至当であろう。

 

しかし、それらの論拠をまさに支えているのが、抗議においてそうした(通常の意味での「公正さ」を否定するような)〈非常に強い「公正さ」〉が求められる所の「男性中心主義」の存在であるとすると、ここには論理的な循環が見られないだろうか。即ち、批判されるべきものの存在定立において当の批判の正当性が担保されている、という循環が。

 

煎じ詰めて言えば、「コミュニケーション様式」を根本的に規定する「男性中心主義」の存在により、それに対する抗議の正当性が、つまり〈風刺文化の否定〉〈解釈権の独占〉〈固定化された社会観〉という非常に「強い「公正さ」」が正当化されるというのである。逆に言えば、〈風刺文化の否定〉〈解釈権の独占〉〈固定化された社会観〉という〈非常に強い「公正さ」〉が、「男性中心主義」を強力な敵として対立的に措定している。明らかに論理的に、両者は支え合っている。

ならば、この〈大いなる円環〉をそもそも是としない場合や、個別の問題についてこの構造に当て嵌まらない事例が指摘される場合は一体どうなるのだろうか。そもそも、否定的に例示された「行き過ぎたフェミニズムの主張」「お気持ち」などという言辞は、こうした循環構造の無際限なる敷衍をまさに風刺し、その外に出たものではなかったのだろうか。

この点のみ指摘して、今は兎に角先に読み進めることにしよう。

 

 

 「要するに、ネット上のコミュニケーション様式と、アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化が結びつき、それによって差別的言動への抵抗感が麻痺させられる仕組みがあったことが、今回の一件をうんだと私たちは考えています。呉座氏は謝罪し処分を受けることになりましたが、彼と「遊び」彼を「煽っていた」人びとはその責任を問われることなく同様の活動を続け、そこから利益を得ているケースもあります。このような仕組みが残る限り、また同じことが別の誰かによって繰り返されるでしょう。」 

「要するに」とあるように、この段落はこれまでの議論の要約である。注目すべきは、「彼と「遊び」彼を「煽っていた」人びとはその責任を問われることなく同様の活動を続け、そこから利益を得ているケースもあります」という文面であろう。この言明は、当オープンレターが、呉座氏個人ではなく「男性中心主義文化」に結び付いているとされる人々への告発であることの何よりの証左である。「彼と「遊び」彼を「煽っていた」人びと」を告発しつつ、その構造の反復を指摘するこの文章は、言わば先の〈大いなる円環〉を認めない人びとへの糾弾であるように思える。

それでは、その糾弾は具体的にどのような形態を取るのだろうか。次の段落でその方策が提示されることになる。

 

 

 「以上により、私たちは、研究・教育・言論・メディアにかかわる者として、同じ営みにかかわるすべての人に向け、中傷や差別的言動を生み出す文化から距離を取ることを呼びかけます。
 「距離を取る」ということで実際に何ができるかは、人によって異なってよいと考えます。中傷や差別的言動を「遊び」としておこなうことに参加しない、というのはそのミニマムです。そうした発言を見かけたら「傍観者にならない」というのは少し積極的な選択になるでしょう。中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない、というさらに積極的な選択もありうるかもしれません。何らかの形で「距離を取る」ことを多くの人が表明し実践することで、公的空間において個人を中傷したり差別的言動をおこなったりすれば強い非難の対象となり社会的責任を問われるという、当たり前のことを思い出さなければなりません。」

この段落は極めて決定的なものである。これこそ、これまで指摘してきたオープンレターの深甚なる構造的問題が実効的に顕在化する一節である。

今まで述べた如く、「中傷や差別的言動」が(〈風刺〉ではなく)「中傷や差別的言動」であるか否かを判定するのは、(例えば文中の「女性研究者」の如き)〈大いなる円環〉の立場に立つ者達である。その者達に〈解釈権〉は〈独占〉されている。その枠内に入った時、その者達の言動への批判や〈大いなる円環〉に対する風刺は全て「中傷や差別的言動」と見做されてしまう。そう、距離を取られる側になってしまうのである。

要するに、〈風刺文化の否定〉・マイノリティ側による〈解釈権の独占〉・マジョリティ−マイノリティ構造から成る〈固定化された社会観〉によって構成される〈非常に強い「公正さ」〉と「男性中心主義」の〈大いなる円環〉を是とせず、それに対して風刺的な批判を行う人々と何らかの仕方で「距離を取る」ことを勧めている。つまりこの段落は、「傍観者にならない」ことを、すなわちイデオロギーを是としない者を社会的に排除するか、はたまた「同じ場で仕事をしない」ことにより追放せよ、と呼び掛けているのだ。

 

もう分かるだろう。「何らかの形で「距離を取る」ことを多くの人が表明し実践することで、公的空間において個人を中傷したり差別的言動をおこなったりすれば強い非難の対象となり社会的責任を問われるという、当たり前のことを思い出さなければなりません」ということは、端的に欺瞞である。何故ならば、「公的空間において個人を中傷したり差別的言動をおこなったりすれば強い非難の対象となり社会的責任を問われる」という「当たり前のこと」の意味内容は、ここでは当たり前のことでないからである。これは、社会通念を、循環論法により自己正当化されたイデオロギーに摩り替える一文なのである。

 

 

 「このような呼びかけに対しては、発言の萎縮を招き言論の自由を脅かすものであるいう懸念を持つ方もいるかもしれません。近年では、そうした懸念は「キャンセル・カルチャー」なるものへの警鐘という形で表明されることがあります。すなわち、問題ある発言をした人物が「進歩的な」人びとによる「過度な」批判に曝され責任を追及されることが、非寛容と分断を促進するという懸念です。
 しかしながら、こうした懸念が表明される際にしばしば忘れられているのは、「問題ある発言」が生じてくる背景に差別的な社会の現実があるということです。差別を受ける側のマイノリティにとっては、多くの言論空間はそもそも自分にとって敵対的な、安心して発言できない場所であり、いわば最初から「キャンセル」されているような不均衡な状況があります。
 私たちは、政治的対立のある事柄について人びとが発言することを抑制したいのではありません。そうではなく、被差別カテゴリーに属する人びとを貶め気軽に個人を中傷することを可能にしている文化こそ、むしろ言論の自由を脅かし、ひいてはマイノリティの生を脅かしているということに注意を促したいのです。
 また私たちは、中傷や差別的発言とそうでない発言との境界が時に明瞭ではないことも理解しています。しかし、事実として両者のあいだに明確な線が引けない場合があることは、その概念的区別を求めることが無意味であることを意味しません。むしろ明確な線が引けない場合があるからこそ、言動に注意を払うことが重要な意味を持つのだと考えます。
 中傷や差別的言動を生み出す文化を拒絶し批判することで、誰もが参加できる自由な言論空間を作っていきましょう。」

いよいよ最後の段落である。

この段落は、想定される反論への再反論を行なっている。その項目は二つで、こうした呼び掛けは「発言の萎縮を招き言論の自由を脅かす」のではないか、それは「非寛容と分断」を生み出す「キャンセル・カルチャー」ではないか、というものである。もう一つは、このような主張を行う者は「政治的対立のある事柄について人びとが発言することを抑制したい」のではないか、というものである。

お気付きの通り、ここに至って、〈解釈権の独占〉によって外部の批判をオミットした、循環論法的な自己正当化は局地に達している。

 

とりわけ欺瞞が顕著に現れているのは、「こうした懸念が表明される際にしばしば忘れられているのは、「問題ある発言」が生じてくる背景に差別的な社会の現実があるということです」という文言と、「差別を受ける側のマイノリティにとっては、多くの言論空間はそもそも自分にとって敵対的な、安心して発言できない場所であり、いわば最初から「キャンセル」されているような不均衡な状況があります」という文言である。

ここで言う「差別的な社会の現実」というのは、これまでの文意からすれば「男性中心主義」のことであろうが、これが言論空間という側面においては「そもそも自分にとって敵対的な、安心して発言できない場所」「いわば最初から「キャンセル」されているような不均衡な状況」であると呼ばれている訳である。

 

しかしながら、そもそも「男性中心主義」とそれに対する三つ組みの〈非常に強い「公正さ」〉という〈大いなる円環〉を初めから前提にして、無数に存在することが自明な物事の程度問題を認めず、またそれ以外の可能性を全て排除しているからこそ、言論空間に於けるマイノリティの処遇はそうした表現で形容されるものとして捉えられることになるのである。

 

それに比べれば相当に抑制的で客観的に見える、「被差別カテゴリーに属する人びとを貶め気軽に個人を中傷することを可能にしている文化こそ、むしろ言論の自由を脅かし、ひいてはマイノリティの生を脅かしているということに注意を促したい」という一節を読む時もやはり、この〈大いなる円環〉を前提にしなければならない。先に述べた如く、ここに並んでいる語句の〈解釈権〉は〈独占〉された状態なのである。

 

〈解釈権の独占〉−そのことが実に端的に表明されているのが、中傷や差別的発言とそうでない発言との境界が時に明瞭ではないことについての以下の論究である。「事実として両者のあいだに明確な線が引けない場合があることは、その概念的区別を求めることが無意味であることを意味しません」という一節の、「概念的区別を求める」という文言こそ、起草者達による〈解釈権の独占〉を事実に優越させることの端的な宣言ではないだろうか。そう考えた時、「むしろ明確な線が引けない場合があるからこそ、言動に注意を払うことが重要な意味を持つのだと考えます」という言葉は、一種の脅迫的調子を帯びることになる。何となれば、起草者達による「概念的区別」(これが〈大いなる円環〉という循環論法的イデオロギーそのものなのであるが)に従うことを、「言動に注意を払う」と述べていることになるのであるから。

 

もうお分かりであろう。

ここには、「誰もが参加できる自由な言論空間」など存在しない。

私が〈大いなる円環〉と呼んできたイデオロギーに従うのか、さもなければ、「距離を取られる」のかの二択しか存在しないからである。

繰り返しになるが、〈風刺文化の否定〉・マイノリティ側による〈解釈権の独占〉・マジョリティ−マイノリティ構造から成る〈固定化された社会観〉によって構成される〈非常に強い「公正さ」〉と「男性中心主義」の〈大いなる円環〉というイデオロギーは、「中傷や差別的発言とそうでない発言の概念的区別」を常にマイノリティ側に占有させることにより、物事の程度問題やそれ以外の可能性を全て巧妙に排除しているのである。共感しないのであれ、批判的なのであれ、このイデオロギーを呑まない者は、言論空間に参加出来なくなってしまう。

 

 

・「オープンレター」とは何だったのか

 

 

さて最後に、オープンレターの「内実」について、纏めておこう。

オープンレターとは、「初めから女性を「キャンセル」する差別構造があるから、女性は中傷や差別的言動か否かの解釈権を独占することが〈非常に強い「公正さ」〉になり、そのように女性が解釈権を独占して告発を行えば行う程、そこにその都度差別構造の存在が要請されて見出されてしまう」という循環論法的に自己正当化されたイデオロギーによる、コミュニケーションの〈解釈権の独占〉である。この〈解釈権の独占〉は、当該解釈によって「中傷や差別的発言」と評価された表現や言動の排除、そして同時に、他の解釈の排除を意味する。

 

そうして具体的に呼び掛けられているのは、このように規定されたイデオロギーに従っていない言動を行う人物から「距離を取る」(「遊ばない」「傍観者にならない」「同じ場で仕事をしない」等)ことである。

 

そして、この欺瞞的な排除の論理は、〈風刺文化〉を初めから(本来はこのイデオロギーから見られた限りのものかも知れないにも関わらず)「中傷や差別的言動」と見做して否定することによって、攻撃的な自己防衛を行なっている。このオープンレターは斯くして、その内容に対する批判を許さない仕組みを、その自己正当化する論理構造にも、その批判的表現に対するオミットの仕方にも、狡猾なことに幾重にも忍ばせているのである。

 

オープンレター−それは、自己正当化され自己完結したイデオロギーによる、奸佞邪智に溢れたキャンセル・カルチャー宣言なのである。

この論理は最早、女性などの「マイノリティ」に告発する資格を付与された「被害者」を、男性などの「マジョリティ」に(例えば、告発されるべき文化を共有し楽しむ「仲間うち」という形で)「キャンセル」されるべき「加害者」を無際限に「概念的区別」から産み出すことを可能にするものであるが、オープンレターの署名が意味するものとは、このイデオロギーに対する(とりわけ男性に関しては半ば強制的な)忠誠宣誓なのであった。

かのネット論客青識亜論氏は、このようなイデオロギーに賛同しない、「強い「公正さ」」を愛する古典的自由主義者だからこそ、幾度も署名を請願したのにも拘らず、御芳名が記載されることはなかったのだろう。

 

 

このような宣言が世間の規範となり遂せた暁には、具体的な程度の差異や観点の相違は全てオミットされることになり、表現の自由は制限されることになる。そこには最早、具体的な内実を持った自由など存在しないだろう。

 

 

皆さんは、それでもオープンレターを支持するか?


(この文章はここで終わりです。皆様からの御支援を心より御待ち申し上げております。)

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