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【しらなみのかげ】 本の整理は来歴の整理 #13

1月9日の更新である。漸く更新が日にちに深夜数時間遅れで追い付いたことに聊かの安堵すら覚える。

 

今日は、昨日のエントリーで自ら宣言したことに遵い、少しだけだが部屋の片付けを進めた。今回着手したのは、文庫本の整理である。本を「売らない・捨てない・譲らない」人間である私は、それはもう大量の本を保有している。そして明らかなことだが、この本が散らかることが家の秩序を乱している。文庫本用の収納ケースを購入していて、前回詰める作業が面倒になってしまって等閑にしているものが幾つか残っていたので、そこに文庫本を詰めて行く作業を、適宜掃除をしながら取り敢えず行うことにした。

 

以前から、箱に詰める時は思い切って、書店の如く出版社のシリーズ毎で分けることにしている。ややもすれば分野や著者や関連項目毎に分けた方が使い易そうにも思えるが、少なくとも文庫本と新書の整理という観点に関して言えば、出版社毎に分類する方が上手く整頓されるからである。興味関心や知的な分類法はその時々の移り気や思考の変化で移り変わるが、どの出版社のどのシリーズから出された本であるのかという事実は勿論、不動だからである。それに此方の方が美観にも良い。

 

図書分類法というものはかのアッシュールバニパルの図書館に遡れると言われる程古来より存在し、本邦の図書館にも勿論日本十進分類法というものが存在するが、本の分類というのは今も尚、随分と頭を悩ませることである。その難しさと言えば、そのことを研究する図書館情報学という学問がある位である。

 

あれやこれやと自分なりの基準を作るが、本の内容を知れば知る程、中々上手くいかないのである。博覧強記で知られるかの松岡正剛は、「編集術」を標語としているのだった。私も彼の「千夜千冊」などに大変に傾倒した時期があったが、その術を習いたい位である。その結果、大凡の配列だけ一応の分類基準を自分なりに作って、後は適当に自分のその時々の興味関心やスペースの問題で並べて行くことになる。

 

その点、文庫や新書の様に内容の如何に関わらずシリーズ物になっている類のものは本当に便利である。単行本ならば、昔中央公論社が出していた「世界の名著」「日本の名著」シリーズや、法制大学出版局のウニベルシタス叢書などがこれに当たろう。取り敢えずそのシリーズで固めておけば良く、見た目だけで置くべき場所が一目瞭然で判る、というのは私の様に整理整頓が苦手な人間にとって大変に助かる。

 

そういう次第で今日は、同じ出版社や同じレーベルの本を黙々と分類し、或る程度溜まっているものから細かく掃除をして箱に詰めて行くという作業を続けていた訳である。本を積み重ねている所は概して埃が溜まっているので、それを出来る限り隈無く掃除して行く作業も、その中には織り込まれている。結局、新しい収納ボックスを買わなければ入らない本がまだ結構な数で残されたが、そうして一通り作業してみると、見渡せば、床面積の広さも多少はマシになった。

 

この時厄介であったのが、書店が付けてくれるブックカバーであった。

私はとても手汗をかく体質なので、あのブックカバーはとても重宝する。汗が本に滲まなくなるからである。しかし当然のことながら、ブックカバーを付けたままにしていると、どの本がどの本なのか、皆目分からなくなるのである。この可視性の低下も又、自分が本を片付けられない原因になっていると気付いたのはそれこそ、一念発起して収納ケースを買い、文庫本や新書だけでも分類して詰めていこうと決意した時だった様に思われる。

 

それまでは大体、この本はこれくらいの厚さで確かあの書店で買ったからこれではないか、と盲滅法に当たりをつける様な仕方で本を探していたのであった。当然、私の様に蔵書数が厖大ならば、そんな仕方では中々目当ての本は見付からない。そうして捜している内に他の本も動いて、配列に秩序を失って行く、というのが通例であった。

 

そういう次第で、周りに付着した綿埃を丁寧に取り払いながら兎に角ブックカバーを剥がしていく作業を続けていたのだが、その過程で中高時代や学部時代などに買って読んでそのままにしていた本などを数年振りに手に取ることになる。地元福岡のローカル書店である金文堂書店、積文館書店、黒木書店、それに西鉄大牟田線高宮駅のほど近くにあった(今はどうなのか分からぬ)大石幸文堂、野間四角にあった(此方も今はどうなのか分からぬ)松葉屋書店。松葉屋書店は文房具も売っていた昔ながらの町の本屋さんであった。ブックカバーを改めて注意して見るだけで、懐かしさに心を押し潰されそうになった。その本屋の当時の店内の光景までもが、まるで走馬灯の如く私の中をよぎる。その紙の皺の中に、記憶と来歴が宿っている。しかし一々ブックカバーを取っていても当初の目的が達成されず、又ゴミが増えるだけであるから、寂しい思いを抱きながら捨てることにする。

 

安岡正篤のPHP文庫などは、本当に久々に触れることになったものの一つだが、中学時代、中国の歴史に惹かれると同時にその思想にも興味が湧いた時、読み漁ったものである。そうして思い返せば、サラリーマンが自己啓発の為に読むあの諸々の安岡の本が、「思想」なり「哲学」なりにこれほど強く関心を抱くきっかけを作り出したものの一つであった。

 

本は私という人間の外付けハードディスクだと考えているからこそ、「売らない・捨てない・譲らない」のであるが、今日の掃除では、まさに私を作ってきたものに改めて触れた思いがしたのである。無論、当たり前の様にずっと家の中にあるものなのだが、整理整頓の為に改めて手に触れ、ブックカバーを捨てることは何だか不思議な感触であった。一冊一冊手に取る毎に過去を思い出し、その手触りの内に甦る過去が自らの血肉の一端をなしていることを確かめ、そしてその過去に改めて今の自分の中での場所を与える。思えば、私達は自らの来歴というもの一般をこの様にして見出すのではなかろうか。

 

しかしながら、そうして我武者羅に書を求めて読むことだけは本当に昔から変わらないということも又、改めて気付かされ、何となくゆかしく思われることである。本が好きな私は又明日も、本を読むことだろう。

 (この文章はここで終わりですが、皆様からの投げ銭をお待ち申し上げております。)

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