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三種の交換から自然と人間との物質代謝を再考する

自然界の生物は交換をしない。使用価値の違う二つのものは違うもので、交換はできないと考えるからだ。違うものを同等と妄想できる人類だけが交換を生んだ。使用価値と交換価値の視点から、あるべき人間と自然との物質代謝の姿を探ります。

自然-壮大な無駄と不条理

人間的視点からすると、自然は、
壮大な無駄と不条理を行いつつ、ただ略奪と贈与を繰り返しているように見える。それが自然界である。
それでありながら、循環する。

自然界の生物が、同等物の交換、等価交換をしているように見える場合も、意識的に行なっているわけではない。
例えばサメとコバンザメ。
サメが食べ残した餌をコバンザメは頂きつつ、サメの皮膚についた寄生物なども食べてくれる。見事な交換関係に見える。
しかし、突然変異と自然淘汰でそのような関係に「なってしまった」種が残っているというだけである。
突然変異のそういう種が生き残ったというだけで、それぞれの意思によって等価交換と合意して、そんな関係を始めたわけではない。

意思によって同等物、等価を判断するのは、人間だけである。

一番人間に近いとされるチンパンジーやオランウータンに、例えば、いま持っている木の実と交換に、大好物のバナナをあげようといくら教えても理解しないという。

木の実とバナナは異質のものであり、その二つがそれぞれ独自の必要性=使用価値があり、全く違うものだ。その二つが「妥当な同等物」「等価」であると判断するのは、人間だけだ。実はとてもおかしな、「同じではないものを同じと誤解できる人間の癖」、違うものを一緒のものと思い込めるという人間の妄想力、喩が必要なのだろう。(中沢新一)

(「等価」という言葉は貨幣による「価格」の存在が前提されているので、ここでは「同等交換」ともいう。貨幣を伴わない物々交換・互酬交換や再分配交換でも「妥当で同等なお返し」と判断することがあるからだ。)

だから自然界のものたちは交換はしない。

自然界は無償の贈与と、破壊するだけの略奪をただただ行なっているのだが、さまざまな突然変異の結果、うまく共生関係が生まれて、違う種類どうしでもまるで助け合っている、「相互扶助」する関係になっている。だから循環する。
人間は全く違うもの、まったく使用価値が違うものたちを同等のものがある、同等物である、と妄想する「知性」がこれまた突然変異の結果か、生まれ、今でも残っている。

この知性からすると、贈与と略奪だけして同等・等価の交換を行わない自然が不条理なものにしか見えない。

そこで自然との関係も同等の交換にしようとする。

自然から無償の贈与を受け取り続けるのに対し、自然にお返しを返さないとと思い、与え続ける。それが、供物や生贄である。そうやって、人間と自然の間の同等交換、つまり、互酬を目指す。

逆に自然から災害や人の死という形で略奪を受けると、自然界の猛獣を殺したり岩石を採掘して飾り物にしたり同等の略奪をし返す風習かあったそうだ。自然の人間への略奪に対しての再分配を自然から受けるべきなのが当たり前かのように。

自然界の太陽も風も植物も動物もこのような同等の交換を望みはしない。ただただ贈与し、ただ恩恵に与し、あるいは、ただただ略奪され、ただ獲物となり、そのようにして時は過ぎる。略奪された動物が仕返しをしたりはしない。

贈与と略奪で全体としてそれぞれの必要性が満たされつつ、循環するのだ。それは、同等物の交換ではなく、単なる無数の偶然の結果なのだ。

しかし、人間は自らの知性によってそれに耐えられない。偶然にも耐えられない。そこで自然に対しても同等交換を迫る。

しかし、逆説的にこの「人間的」な行為が人間と自然との持続可能な関係を生んでいたのではないか。つまり、自然に対しても同等の関係であろうとすることが、自然からの過剰な略奪を抑えていたのではないか。

自然と人間との「同等の交換」

自然の贈与に対しては「同等な分」だけの供物を。自然の略奪には「同等な分」だけの略奪返しという再分配を行う。
だから必要以上に自然から受け取り続けはしないし、略奪し続けることはできない。

これが古代の人間の持続可能性を支えていたのだ。つまり人間と自然との間にも同等交換を成り立たせようという人間的な行為の結果が。

ところがなぜかどこかで、人間社会は自然との間の同等交換を忘却する。なきものとする。自然との関係が人間的でなくなる。
ただ恩恵を受け、略奪をしていい相手として自然をとらえる。

自然は貨幣を理解しない

貨幣の誕生が人間と自然の同等交換を終わらせるのかもしれない。
貨幣と商品の交換の中には自然界は参加しようとしないからだ。

自然は貨幣を人間に渡しはしないし受け取りもしない。

貨幣を貢がれたとしても等価の価値を認めはせず、ただ、その貨幣の物質としての素材的側面ーー金属、紙、穀物ーーのみを認める。貨幣の価格は分からない。単独性をもつ素材の使用価値のみを認める。だから「交換価値」ではなくて、物体として扱う。生物はそれを栄養にするのか、放置するのか、腐敗させるのか、いずれにせよ、ただただ自然のままになる。

自然は貨幣を理解しない。貨幣の価値は「使用価値でなく等価」を示すというまさに人間だけの価値、交換価値に根ざしているからだ。

貨幣の等価交換に応じない自然に対して、人間は古代より続いた同等物の交換を止める。

こうして「人間的」でない、ただ恩恵を受け、略奪をしていい相手として自然をとらえる。

この自然との同等物交換の終了が、繰り返される人間の文明による環境破壊の始まりかもしれない。

人間と自然の間の等価交換の不可能性。

同等な交換行為を自然に対してすること自体が、自然と人間の共生を逆説的に生み出すのだ。「不自然」な、つまり「人間的」な、知性による自然との対応。

それを現在では、どう取り戻すことができるのだろうか?つまり、自然との「人間しかしない」交換を復活させる。同等な交換関係。

自然だけでなく人間の共同生活条件も切り崩される。

貨幣と商品の交換が拡大するにつれ、人間と自然の交換だけではなく、人間と人間の関係も、等価交換を極限まで推し進めた貨幣交換まで行き着く。

商品と貨幣の交換の中でしか、人間は互いに関係を持てなくなってくる。
貨幣所有の寡多により、所得格差が生まれてきて社会不安が生まれる。
労働力や土地やも私有財産となり、貨幣による市場交換が可能なものとされる。人間や土地という自然物が商品としか見られなくなる。貨幣による資本の運動に取り込まれてしまうのだ。

自然との貨幣=商品交換の代理人としての地主

人間が勝手に行っていることではあるが、自然は人間との互酬や略奪再分配には見た目応じる。自然への捧げ物の贈与や災害への仕返しによって。

しかし、貨幣と商品交換には自然は価格をつけないので応じない。としても、実は自然の代理人として、貨幣を理解する人間を介在させれば自然と人間との間の貨幣交換が成り立つ可能性がある。自然の代理人として一つ考えられるのは、つまり地主だ。

地主は自分が作ったわけでもない自然の土地に対して私有権を主張し保有する。しかし、自然は地主とは別物であるし、土地は人間や多くの生物にとっての共同生存条件だ。そんなに軽々しく私有されては生存が危ぶまれる事態となる。

だから、人類社会は長い間、土地への私有権は認めなかったし、認める資本社会でも強い利用・開発規制をかけるのが普通だ。
実は新自由主義経済学のもとになったとも言える、完全自由市場の新古典派経済学の創始者である経済学者ワルラスも、土地だけは共同管理、つまり、国有でなければならないと主張していた。

つまり、地主は土地を自由に使ってはいけない。ある程度の規制は必ず必要であり、利益として得られる地代の多くは、自然からの無償の利潤獲得であって、その利益を人間の地主が全て得るのはおかしい。

地主の利益の多くは自然への等価の交換として、つまり地主は自然の代理人として、自然に投資して自然の土地を維持可能に留めなければならない。地代は自然の維持への代金なのだ。

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