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学歴ロンダを望む猛者、再び現る

 さて、再び現れた。ド田舎底辺大学から、旧帝大の大学院を目指そうという猛者が。2年ぶり4度目。別に構わない、それが研究にまつわる動機なら。例えば、入りたいラボがあるとか、やりたい研究があるとか、○○先生に指導を仰ぎたい、とか、何かしらの研究に関わる動機さえあればいい。

 しかし、である。このところ○○大学の大学院に行きたいと考えている、と宣う学生さんは、理由を問うても研究のことは一切出てこない。ただ「旧帝大」の名前を目指してるからだ。旧帝大の大学院修士課程卒という称号を手に入れることを目指している。そこにやりたい研究があるとか、何かをしたい訳ではない。なので、私の答えはいつも同じだ。

 「そこの大学院に行って、何がしたいの? あなたのやりたいことを聞いてから他の大学も含めてどこのラボがいいのか一緒に考えましょう」

 ぶっちゃけ「勝手にいけばいい」のだが、「どんどんいけばいい」とも思ってる。この手のワナビー系の学生さんに未練はないし、優秀ならば尚更うちのラボなんかで腐ってしまうよりも、どんどん高みを目指せばいい。うちの大学院に進学する学生さんと比較して適当に扱うなんてことも100%ない。卒論への対応も指導も評価も全て同じプロセスだ。進学しようが、就職しようが、それは学生さんの自由だ。なので、勝手にいけばいいし、チャンスと能力があるならばどんどんいけばいいと思う。

 そもそも私は学生さんの卒論に対して成果を求めてはいない。卒論に取り組む期間で、その後の進学や就職に対して、何かしら得るものがあれば、それでいいのだと思っている。こんなド田舎底辺大学では全ての学生さんを研究者として育てるのが目標ではない。社会に出る直前の、人生においてはとても大事な期間を、研究室のメンバーと過ごしながら、なにかしら得るものがあればそれでいい。進学か就職かとかいうのは人生に関わる選択なので口を挟むのを私は余り好まない。

 ただ・・・私にとって気がかりなのは、いつも「その後」の事だ。卒業生のことで思うのは、就職だったか、外部に進学したかではなく、その先(就職先or進学先)で幸せに暮らしていけてるか?が気になるのだ。出てった後のことが気になってしまうというのは人間の性というものだろう。だから「称号」だけを目指しているなーというのがあからさまに透けて見える場合は、どうしても「その後」が不安になってしまう。嘘でもいいから何かしらの理由付けぐらい出来るようになってからでないと紹介も何もアクションをしないことにしている。

 たぶん、今回その希望をしてきた学生は、話を聞く限りでは入学時はそれなりに優秀だったのだろう。こんなはずじゃなかったという思いと共に、ド田舎底辺大学に来たんだろう。「あ、いや、ここのラボの先輩で○○大学の大学院に進んだ方がいると聞いたので」と答える学生の目は、やや泳いでいた。「ので」の先は何がいいたかったのだろう? だから私も? 大学院で何がしたいの?なんて聞かれると思っても居なかったんだろう。自分ならどっかのラボをさくっと紹介して貰えると思っていたんだろうか? でも、教員としての一般的な視点では、このド田舎底辺大学の中で比較しても優秀とは言えない区分にいる。授業態度、出席率、テストの成績、色んな角度から見ても、どちらかと言えば良くない方の部類にいる。そのことを本人が自覚できているかどうかは分からない。

 そういえば、春の歓迎会の時に、出会ってすぐに出身大学を聞かれたことを思い出す。そんなものネットを調べれば全部書いてあるのになぁと思ったことも思い出す。私が観察可能な範囲では、称号を欲するよりも先に、やらねばならないこと、考えねばならないこと、行動しなければならないことは沢山あるように見える。入ってきた時の優秀さとは無関係に、4年間の使い方は人生へ影響する。学部生時代の4年という時間の価値は、過ごしている間には見えない。おっさんやおばさんにならないと分からない。それがどんなものであれ目標に向かって前向きに努力した4年と、こんなはずじゃなかったと回りを見下して過ごす4年の価値は違う。自分は何がしたいのか、答えを見つけて欲しいと願っている。

 

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