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ダラダラにも意味を与えてあげたい

だらだらしてる自分に強烈な罪悪感を感じてしまう時がある。
(今日は朝からやろうと思っていたことがあったのに)
(こんなことしていて一体何の意味があるんだろう)
(外に出かけていればもっと幸せなことがあっただろうに)
ベッドの上で頭の中はグルグル思考が駆け巡る余計ベッドから動けなくなる。

(何やっているんだ、私)と。

休むに潜む「ハードル」

休むことに罪悪感を抱いてしまうことのひとつに、「休む」という行為に常に付きまとっている「合法性」ともいうべき条件の存在があるのではないだろうか。

例えば会社の人が「休む」と言えば、
「土日祝」や「有給休暇」による決められた休みのタイミング。
あとは「冠婚葬祭」などの特別な休みくらいか。

漁師さんや農家さんは漁が禁止されている時期や、収穫後の間が一応休みになる(本当はこの間にも大事な仕事があるんだけどね)
それ以外はほぼ毎日、自然との闘いになる。

こうした誰から見ても明確な理由がなければ、休んではいけないような
「甘え」「怠け」
に代表される言葉になってしまう空気が「休む」という言葉の本来の意味合いに加えて癒着して離れないようになっており、
おいそれと「休む」という行為を口に出したりするのが憚られるのが
「休む」に対する抵抗感の一因となってしまっているのではないか。

大前提として病気やけがはもちろん、私以上に心がしんどい人たちも本当に休まなければいけない人がやすむことに何も罪悪感を抱く必要はないと私は思っている。

個々人価値観は異なるだろうし、
もっと言えば国や文化でも「休み」に対してのスタンスは
様々あることだろう。

ここで問題になっているのは、仮に日本として
いまこの令和の時代、「休む」という行為に対して
どの程度他者からに見て許されるのかそうでないのかという
境界線を敷くのが難しいということ。
加えて「休む」のに誰か第三者の目線を挟まなければ成立しないような
独特の雰囲気や古来より慣習化した考え方と
現代の休みに対する「需要」とが
もはやマッチしなくなっているところにあるような気がする。

新しい「休む」の概念

すでに定着した慣習イメージや固定観念をひっくり返すのは非常に難しい。変わってほしいと願うその慣習もまた、長い時間をかけてやっと浸透した形だから。

であればこそ、このどうしようもないダラダラを
日常誰しもに起こりうる、ごくごくありふれた矜持のような
概念としての居場所があったらどうだろうか。

あるいは、「休むこと」に対してひとつ「新しい言葉」を与えて
そこに新たなニュアンスを定義してあげる
のもいいかもしれない。

最初は学者やお医者さんの間の通俗語でもいい。
それがいつの間にか、日常の言葉として少しずつ浸透するように。
別にあんまりかしこまらなくていい。
それこそ「もぐもぐタイム」的なやつ。
(今チョー適当に言いました。ごめんなさい)

誰かネーミングセンスのある人、ご検討のほどお願いいたします。

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