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【心の哲学】意識的に楽しむ

過去に先人が散々言い尽くしてきた言葉があるが、
「楽しむ」が自然と身に感じるようになる一番の秘訣は、意識的に自分が楽しむ状況に持っていくことのようだ。

「楽しい」とは元来、人間の中から勝手に湧き立つものではなく、自分自身がうまいことエンジンをかけてあげること、日々の生活の中で工夫という名の薪を絶やさないことが大事になるようだ。

子供の「楽しい」と大人の「楽しい」は似ているようで違う。

子供の頃の「楽しさ」というのは友達と遊んだり、家族とおでかけしたりする中で生まれてくるのだが、この時の「楽しさ」というのは「精神的な自由さ」が現れているように感じる。

子供というのは、自分でできることや行ける場所の範囲に制約があるものだ。せいぜい自分の家と学校、近所の友達の家や公園くらいで、それ以外の場所には基本的に大人が同伴する。こうした物理的な制約の中でどうにか最大限「楽しい」ことを見つけようとして、目に映るもの聞いたもの触れたものから新たな発見やら興味に気づくことで自分の精神世界をどんどん広げていく。

また、ちょっと言い方が悪くなってしまうが「子供だから許されること」というのもある。大人に内緒でといった。土地が土地なら子供たちだけの秘密基地なんかはその最たる例だろう。そのときは楽しいけど結局後で親や先生に怒られる。だがそれもまた大人になるうえでの人生の貴重な経験である。もちろん子供であっても許されないことはあるのでそこはお忘れなきよう

それでは、大人の「楽しい」は何かというと、これは子供の時と性質が反転しているのである。

大人になったことで一人でできることや自由に行ける場所が増えるし、自分のバイト代や給料でお金を自由に使えるようになると、子供の頃にあった「物理的な制約」が一気に取り除かれる。

一見すると子供の頃に比べて「楽しい」の感情であふれてくるように思えるが、その一方で仕事をする以上「時間」という制約が課せられたり、さらに言えば大人である以上社会の中における「ルール」という制約がより本格的にのしかかってくるのである。

物理の枷が外れたことで精神の枷をかけてしまうのである。

人生を楽しめている人というのはおそらく、この「精神的な枷」を無意識のうちにバランスよく外せているのだと思う。もっと言えば「子供の楽しさ」と「大人の楽しさ」のちょうどいい混ざり具合を知っているのだろう。

創作にも似たようなところがある。「子供の楽しさ」には自由な解放感があるが、偏りすぎてしまうとあまりに荒唐無稽で破壊的なものになって、周りに受け入れてもらいにくい状況に陥ってしまう。
だからといって「大人の楽しさ」に偏れば、物事としては安定的なものになるが芸事としては「堅苦しくつまらないもの」とみられてしまいがちである。

バランスというのは難しい。私も未だに自分にとってのちょうど良いところがわからず、四苦八苦している。

ただ幸いなことに、「楽しさ」を見つけるアンテナはすぐにとはいかないまでも後から、そしていくらでも見つけられるのである。
はじめからできるようなことではないし、今存分に楽しめないことを恥じる必要もない。早いも遅いもない。
気が付いたらできていた、それでいいのだと思う。

子供の楽しさ。大人の楽しさ。
どちらも思い出せる人になってこそ、「本当の楽しさ」が生まれると思う。

いつも通りの生活にほんの少しでいいから普段自分がやらないことを取り入れてみて、「私は今楽しいだろうか」「これが好きなことなのか」と問いかけてみるくらいの心の余裕は持てるようになりたいものだ。

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