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他の人の「好き」に対する私のスタンス

以前の記事でこんなことを書いた。

私は基本的に他人の「好きなもの」に対しては全面的に肯定している
インドアだろうとアウトドアだろうと、
スポーツ、学問、サブカルチャー関係なくオールジャンルで。
今日はどうしてこうなったか、という話。


高校時代の話

私のスタンスが生まれたきっかけになったのは、
間違いなく高校時代だと思う。

うちの学校は、とにかく部活動の種類が多かった。
運動部・文化部問わず大会とかインターハイが存在する部活は
基本的に揃っていたし、
同好会も常に10数種類活動していた。

オールジャンルあらゆる文化に人権があった。

また、入学してくる人たちの傾向として
真に極めたオタク・マニアが多かった。
「○○君は何が好きなの」と聞いたとき
だいたい聞きなれない内容が帰ってきてくるので
「それはなんぞや」となっていた。
むしろ基本的なスポーツや流行のアニメ・ゲームは、ほぼ全員最低限の心得があって、それも「暗黙の教養」とでも呼べるほど「好き」レベルのボーダーラインだった。

そこにプラスアルファで、
何か個性的な趣味や興味対象がなければむしろやっていけない
どこにでもいそうなごく普通の趣味の子を探す方が難しいという学校だった。

「好き」への寛容さ

そういう校風と集まってくる生徒のおかげか、
クラスメートや部活の人たちは私の「好き」に対して、
特別応援したり共感するというわけではないものの、
(Ganmoは○○が好きなんだな)
(好きなことで頑張っているようだ)
ということを、なんとなく知ってくれていた。
好きであることに対してを良い・悪いの判定をせず、寛容でいてくれた。
(まぁ無関心や無頓着だったのかもしれないけれど)

そして、私の「好き」それと同じくらい
彼らも私に、みずからの「好き」を話し、分け与えてくれた。
この関係、時間がとても好きだった。

学校全体でいじめが全くなかったわけではないけれど、
他人の「好き」に対して
「うわ、オタクだ」とか「変な趣味だよねあいつ」と
変に水を差すような話は自分の周りでは聞かなかった。

こういう学生生活を送った結果、
法律や倫理観的にアウトなものを除いて、
「私はあなたが好きなことに対する想いを全面的に受け入れる」
「逆に、私の好きなものに対する気持ちをありのまま認めてください」

という私の基本的なスタンスは形成された。

みんなが「好き」を伝える才能の持ち主だった

彼らに共通していたことがあって、
それは多かれ少なかれ、自分の「好き」を伝える才能があった。
個人差はあれど、興味をそそる語り口があった。
なにより「好きなこと」を話しているときの
生き生きとした話し方に私は魅了された。

みんな、自分の「好き」にまっすぐだった。

もうひとつ、彼らの話し方の特徴として

  • 聞いている人に対して自分の好きを押し付けないこと

  • 自分の話で相手を不快にさせない絶妙な熱意

無意識のうちなのか、こうした配慮ができる人たちだった。
私も幾度となく、彼らの趣味や好きなものを話を聞かされてきたのだが、
みんな話が面白いのだ。
私がそれまで興味を持っていなかった、知らなかったものを
もっと知りたいと思わせてくれた。

おかげで私はある程度広く浅く、カルチャーを教養として身に着けることができたと思う。

ほんと、「こういう連中が三越テレショップとかやったらいいのに」とか思ってしまう。

そして大人になった今

高校を卒業してから徐々に感じたことだが、
どうもこの世間様の下では、自分の「好き」を語りにくい空気が漂っているように感じる。

たとえば、今一緒に働いている会社の人たちの中で、
趣味や好きなことをちゃんと知っている人間ってどのくらいいるだろうと頭を巡らせても、せいぜい数人くらいだ。
自分の隣に座っている人ですら、何が好きなのか聞いたこともない。
逆に私もまた、人に話す機会がめっきりなくなった。

こうして振り返ると、高校時代のあの時間というものが、
私にとっていかに恵まれていたかということを思い知らされる。

すべての人間が自由に「好き」を言い合えるわけではない。
むしろ、馬鹿にされたり蔑まれた人の方が圧倒的に多く、
そうした状況に怯え、ひたすらに「好き」を隠し続けてきた人の方が多かったのではないかと。

だからせめて私は、
ひとの「好き」を正面から受け止められる人間でありたいと願う。

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