バレエ小説「パトロンヌ」(62)
甲斐が開くバレエスクールのポスターを見た時、彼女は直観的に、彼が次の世代の育成を始めた理由がわかったような気がした。ポスターの中で、子どもたちに囲まれた甲斐が優しく微笑んでいる。
後継ぎが欲しいのだ。
甲斐は今、30歳。油の乗り切ったダンサーとして、誰よりも高く跳び、誰よりも速く回り、人々を驚嘆させ、充実の日々を送っている。しかし肉体の芸術は、寿命が短い。いつか頂点を迎え、そして気がつけば下り坂を降りている。
「ダンサーの哀しさとは、精神的に作品を最も理解した時には、すでに肉体はピークを過ぎていることです」とジャン=クリストフ・マイヨーは言う。
それに比べると、作品は永遠だ。良い作品は、100年でも200年でも生き延びる。今世界中で知らない人はいないくらい有名なゴッホの絵は、生前2枚しか売れなかったというではないか! 甲斐が古典バレエの再振付に飽き足らず、独自の振付に挑むようになったのは、「バレエ」と言う古典芸術の一画に身を置くことで、永遠の命を得ようとしているように思えた。
そしてもう一つ、一代限りのダンサーとしての寿命を、後の世につなげる方法がある。それが、後進の育成なのだ。無論、自分と全く同じダンサーなどつくれない。でも、それは自分の子どもであっても同じことだ。「彼の優秀なDNAを遺したい」と言って、有名スポーツ選手と結婚・出産した女性がいたが、生物的なDNAだけでは遺せないものがある。
DDと別れた甲斐は、その後数人の女性と浮名を流したが、結婚に至ってはいない。まだ30歳だから、これからいくらでも他の誰かと結婚するチャンスはあるだろう。しかし、「眠りの森の美女」の、あのDDとの結婚式を見てしまったリカには、もはや甲斐はバレエのミューズと結婚したとしか思えなかった。
リカはもうすぐ45歳になる。寺田甲斐のバレエに出会った30歳の頃は、まさか自分がこの歳まで独身でいるとは思いも寄らなかった。正式な結婚をしているかは別として、きっと決まった人と人生を共にし、家族のようなものを作って暮らしているのではないか、おそらく子どももいて……そう勝手に思い込んでいた。だがヒロと別れた後、リカは誰とも付き合うことなく今に至る。ある日突然ヒロとの絆が一方的に断たれたことは、リカにとっては思った以上に大きなダメージだった。単なる「別離」では済まされぬ「裏切り」という傷跡は、その後も誰かを好きになるたびに、ドクンドクンと内側から、血を流し疼くのだった。(つづく)
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