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花束みたいな恋をした

大学生の頃、恋が始まる瞬間、僕が感じた予感をあの時彼女はどう感じていたのだろうか。

冒頭の二人が、感じている心の声を表出しているシーンで、自分のあの時を重ね合わせてしまい、一気に世界に引き込まれた。

舞台となる場所が京王線沿線であり、僕の記憶とさらに重なっていく。

終電を乗り過ごして甲州街道を歩いたことがあって、彼らの上に見える高速道路がとても懐かしい。

途中、駅の裏を歩いているシーンは、多分僕の使っていた最寄り駅の線路沿いの道で、見知った景色に麦と絹がいることで、その町に本当に2人がいるように錯覚をしてしまう。

京王線沿いを選んだ理由が、耳をすませばの街並みへの憧れからで、猫に名前を付けるシーンで、僕がつけるならムーンだなとか頭の中で声を上げた。

それくらい僕にとって懐かしい過去、少し前の日常にあった風景だと感じ、僕の記憶なんじゃないかと思ってしまった。

自分事として感情移入しやすい映画は、他にもたくさんあるのかもしれないけれど、今回は今までになくかなり入り込んでしまった。

物語が進み、麦の出身地が新潟県長岡市とわかり、ジュピターと共にフェニックスが流れてきた時、前情報をなるべく最小限にしか入れていなかった僕は、その場面で思わず身を乗り出してしまった。

駅から徒歩30分の、少し遠くて、少し広めで、住み心地の良い、都会の中でも少し田舎を感じられる場所にある部屋。

僕が選んだ東京での住まいも、駅から歩いて20分くらいかかるところだった。

彼らが選んだ理由は僕とは違うはずだけど、そんな場所を選んだ二人に、より自分を重ね合わせてしまった。


二人が好きなこと、好きなものは、はじめは生活の中に必然のものとして部屋を彩っていたのに、時間の経過と二人の変化に合わせるように、二人を繋ぐことがなくなっていき、特に麦にとっては、それを一緒に楽しめなくなり、自分の置かれた”今”の中へ逃げ、絹からも目を背けてしまっているようだった。


僕の記憶の中の東京生活の終わりも似たようなもので、今思えばあの時彼女が感じていたことは、絹が彼女の代わりに語りかけてきたものなのかもしれない。

僕の口から出ていた言葉は、麦の言葉の中にかなり似通ったところがあり、じゃあで始まるセリフや、他に何かして欲しいことあったら言ってとか、あの頃の僕(いや今もか)は言いがちだったなと、すごく反省してしまった。

根っこの部分は似ていても、年齢を重ね、社会に出て、互いの置かれる環境の変化で、どこかのタイミングで、元には戻れないくらい道を違えてしまう。

きっとこういう恋愛を、みんなそれぞれ抱えて生きているんだろうな。

鑑賞後、40を超えた僕たち夫婦は、お互いの知らない、お互いの二十代前半を思い出し笑って、「あの頃ってこんなだったかね」と言い合えることがとても幸福であり、とても奇跡的なことだと思った。

妻にも絹のような恋があったはずで、結婚前から過去のことを詳しく話したがらないから、今も昔の恋愛についてはわからないけれど、こういう素敵な恋を経て今の自分たちがいるという事を、妻も僕と同じように感じていたような気がする。

邦画の恋愛ものは、劇場で見なくてもいいという考えだったけれど、大きなスクリーンと没入できる音響があったからこそ、僕の20代の記憶により重ねることができて、心に沁みてきたのだと思う。

とてもよかった。


余談:長岡のお父さんの訛りが残念だったなぁ。きちんとした長岡弁使ってくれてたらもっと良かったなぁ(笑)。

さてこれからパンフレットやシナリオを開いて、麦と絹のいるもう一つの世界にしばし戻ってみようと思います。

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