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余白で社会の裂け目を埋める - 300人の非行少年少女を救う「ばっちゃん」の生き様

ばっちゃんとその教訓

 NHKの2017年の番組「時をかけるテレビ」の「ばっちゃん〜子どもたちが立ち直る居場所〜」を観て、教育格差や生まれの格差という言葉を日々耳にする中で、その個別複雑なそれぞれの状況はどれほど多面的であるか、そしてそれを知る度に自分に何ができるのかを考えています。非行に走る子どもたちが立ち直る居場所を提供する「ばっちゃん」の存在を描いたこの番組は、親の育児放棄、家庭内暴力など、さまざまな背景が非行の裏にあることを浮き彫りにしていました。そして、それら理不尽すぎる環境による負のスパイラルから子ども達が脱する為に、「ばっちゃん」のような「助けて」とはっきり言葉にできる人(対象)を見つけ、それを受けた人が自分ができることで(無理なく)助けられる、そんな重要性を感じています。

教育や生まれの格差は単に経済的な要素だけでなく、心理的、環境的要因が複雑に絡み合い、子供たちの行動や未来に深刻な影響を及ぼしているのは想像に難しくないと思います。私たちがこれらの問題に向き合うとき、表層的な解決ではなく、それぞれの個別の事情を理解し、適切な介入が求められますが、それはここで簡単に書けるようなことでもなく、ミクロにもマクロにもそれぞれできることを考えていく必要がありそうなので、その棚卸を。

見えない戦争:心の格差

 ばっちゃんの姿勢から学んだ重要な教訓は、「子どもから面と向かって助けてと言われたことがない人にはわからない」というばっちゃんの言葉です。これは、私たちが普段接する人々、特に困難を抱える子どもたちに対する私たちの接し方に大きな違いを生むことを示唆しています。特に私立教育や地方格差、あらゆる分断が当たり前に存在する社会の中で、少年院を出入りするような子どもと私立受験に奔走するような子どもが交わることもなければ、子ども同士を交えることを望む大人も滅多にいないのではないでしょうか。

人間としての深いつながりは、顔が見え、感情が交わることで初めて成立します。映画『トップガン』の戦闘シーンで顔が見えないからこそ敵機が撃墜されたからといって悲しむ観客がいないことや、『ET』に登場する大人たちを敢えて顔が見えない描写にすることで敵としてしか見れないような構造にすることなど、顔が見えないことは相手に対する感情及び関心の希薄さ、ひいては顔が見えない相手に対して想像を働かせることが難しい人間の心理が垣間見れます。直接の人間関係での経験は、私たちの共感や行動を大きく左右します。直接、「助けてほしい」と言われたこともしくは誰かに言ったことがある人はどれだけいるでしょうか。最後にそうした機会があったのはいつでしょうか。

適応障害を例に考える環境の影響と社会的責任

 最近よく考える適応障害に関しては、遺伝と環境が五分五分の影響を与えているとされ、特に幼少期の環境は遺伝的側面に更に後天的な悪影響を及ぼす可能性を孕んでいます。ネグレクトやヤングケアラーとして育った子どもたちが、苦労を重ねてもなお困難な状況に直面することは、社会的にも道徳的にも大きな問題ではないでしょうか。

 非行に走ってしまう裏側には、親の育児放棄もあるし、理由すらわからない場合もあるし、原因が父の暴力と見せて、それは父の暴力が家庭の問題を浮き彫りするきっかけになったということもあります。非行に走った時に、それを助けてあげる人、助けるとは言わずとも、話を聞くことができたり、ご飯を食べさせてあげることができたり、困っている相手に寄り添うことができる人、そしてそれは「特定の人」ではなくて、「それができる状態の人」であると思います。それはその瞬間、その人に人を助けようとする「余白」があるからこそできることでもあり、同じ人でも「余白」がないタイミングであれば、その人を助けることもできないかもしれません。これは職場で多発する適応障害の話にも繋がります。

 ヤングケアラーやネグレクトを受けた子どもがいくら苦労しても、当たり前のように両親がいて当たり前のように大学に行けて留学に行けるという人たちが、結局はお金を稼ぎ一見幸せになっていく。負のサイクルと正のサイクルはそれぞれ交わらないように回っているように感じることがあります。それらがNPOなどが作り出す所謂「ばっちゃん」のような存在の軸で交わることもあれば、寄付的な行為で交わることもあります。この交わりは広い社会の中で「余白」を持った人とタイミングよく出会えることが重要です。

 しかし誰もが「余白」を失っていく閉鎖的な職場においては、そうした「ばっちゃん」のような存在が瞬間的に生まれることすら難しくなり、仕事という「退屈に耐えれきずに人が行う行為 c.f.) 暇と退屈の倫理学」場において様々な形で人の人生を壊すような精神的ダメージを負わせるのかもしれません。そしてその原因を作った人間が、原因それ自体が自分のせいだと知ることはない。知る、というのは理解してそれを引き起こしてしまった自分それ自体も受容するという意味です。万が一、この記事を読んでいて心が苦しくなる方がいてしまった時は私たちのコーチングサービスまでご相談ください。


呟き:お金や時間、それ以上に「余白」をどう循環させていくのか

 港区女子が身につけるハイブランド、ビジネスシーンでソーシャルグッドかつ高級な品を選ぶビジネスマン。これらの姿に、なぜか違和感を感じることがあります。その理由は、彼らが支払う大金が、もしそのような高価なものに使われず他に回されたら、もっと多くの人々が助かるのではないかという非常に偏った思考をして生きているからだと気づきました。

私たちyohaku Co., Ltd.で目指しているのは、お金だけではなく精神的な余白が人々の中で循環する仕組み、精神的余白や時間的余白のフェアトレードを超えたエシカルトレード、つまり人々の時間や精神的な余白が社会全体に循環する世界なのかもしれません。技術を駆使し、効率化を進めることで、物理的、時間的な余白は確実に生まれてきています。

本質的には誰も助けられないような付加価値と呼ばれるものを生み出すのに固執するのではなく、目の前で「助けてほしい」と言葉に出してくれた人々に、自分が時間や僅かな余白を惜しみなく提供できるような行動をし続けたいし、そんな社会を実現したい。そしてテックの開発で昨日できなかったことができるようになる。視覚に障害のある方に初めてゲームを提供して喜んでいただけた経験。自分ができる僅かなことが、再現性を持って誰かの為になる開発経験。それが、私が今やりたいことなのかもしれません。


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