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多様性をラベリングしてラベルの理解に努めるのではなく、唯々その人と向き合うこと。

 改めて障害や多様性という言葉について考える時に大事にしている思考と、ここ数年社会で氾濫してしまっている「多様性」という言葉について、自分なりに少しでも再定義していく機会を作っているので今日はその記録を。言葉の定義は分断や誤解を生みやすいからこそ「今」の自分の考えを「書き言葉(エクリチュール)」として残しておきます。(明日には変わるかもしれないし、常に固執せず変革していきながら、いずれ未熟な自分を反省出来る日が来てほしい気持ちもあります)

 花見の時期はだいぶと過ぎましたが、「桜」を観に行くのではなく、その「桜の木」のその「花びら」を観にいくような感覚に近いかもしれません。人間をラベリングする多様性ではなく、「その人の中の多様性」に着目していきたい、そんな感覚です。

 「誰もがありのままで居場所を感じられる社会」そして「障害という言葉のない社会」を目指していて、その為にも多様性についてはずっと考え続けているので、これまでのプロセスも振り返ってみます。

【多様性とその受容について】

 世間一般で氾濫している「多様性」について考えるときの思考については下記のようなグラフをイメージしています(雑すぎてすみません)。多様性と共に考えることが多いのは受容の話だと思います。ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)という言葉に表されるように、多様性それだけの議論というよりかは、多様性の受容(尊重)について議論されることが殆どの筈です。

関係性における多様性(とある特異性)の受容度の変化図


 その時その受容性を縦軸とし、それを受容する時の関係性を横軸とするとグラフのようになると思います。分かりやすく、仮に私がLGBTQでいうTだったとしましょう。その時、あなたが私のパートナーであれば、多様性を受容している筈です。受容できずに拒絶したり理解を示せなければ関係性は壊れてしまうでしょう。しかしあなたが私のクラスメイトの1人、であれば受容してもしなくても、お互いにそれほど影響は及びません。そして、それが一生関わることもない人と人、という社会の枠で言うと、受容しようがしまいがお互いには直接関係のない事象になっていくと考えられます。(これは悲しいことでもありますが、現代の日本における課題だとも思います)
 勿論、受容できない多様性を否定したり非難することの意味は何もないと思いますが、受容しない(できない)というスタンスを自分の中だけに決め込むのは否定しません。

【社会通念における多様性という言葉の違和感】

 先ほどの話から意見をまとめると、多様性とその受容については関係性によって向き合い方が変わるものなのに、それぞれの関係性をすっ飛ばした社会通念をゴリ押ししてくるケースが増えていると感じていて、これが多様性を考える上で課題になっているように思います。先ほどの例でいうと、周囲にLGBTQの人がいないにも関わらず、「LGBTQを理解しよう」みたいな言動をするケースやそれが大切だという価値観を押し付けてくるようなケースです。決してそれが悪いことだとは言いませんし、それが人を助けるケースもあると思いますが、関係性を無視したこうした言動というものは、本当の多様性の受容とはどんどん離れたものになってしまうのではないでしょうか。

 冒頭でも述べた通り、注目すべきは「その人の中にある多様性」だと思えてならないです。ラベリングをしてしまうと中々気付けない、その人の色んな一面、それに気付く機会を作っていきたいものです。

 つまり先ほどのグラフでいうの社会通念的なものにのみ言及するのではなく、グラフでいうについて考えることが本質的に大切なことではないでしょうか。非常に極端な例ですが、私が仮に元犯罪者だとした時、の社会通念でいうとまともに付き合ってくれる人はかなり少ないでしょう。何なら社会のルールにすら縛られ仕事にも制限がかかり、過去の事件を知った人間からは軽蔑されることになるかもしれません。そんな絶望的な状況の中、最愛の恋人は自分の更生を信じていれくれたり(グラフの)、家族や友人のコミュニティ、もしくは職場などではありのままでも居場所がある(グラフの)とすれば、絶望的な状況とは言えなくなるのではないでしょうか。社会通念的な枠で考えてしまうと、このによる居場所がなくなってしまい、排他的な扱いを感じてしまう人が増える原因になると思います。それに、ラベリングを通してその人を見るのではなく、その人の中の多様性に注目することが出来れば、もっと違う付き合い方もあるのではないでしょうか。

 要するに、多様性という言葉に含まれている、一人ひとりの人間の個性が社会通念より上回っているにしろ、下回っているにしろ、その個性(とその人の中の多様性)を理解・受容・尊重してくれる人間との関係性をどれだけ構築できるかが本質的に大切のように思います。その際に必要なのは、私が仮にLGBTQのTであるとした時のラベリングについて理解することではなく、「私」という人間そのものについて理解する姿勢がとても重要なのです。

 至極、当たり前のことを述べていると思いますが、結構無意識にこの社会通念でいうところのラベリングの理解に留まり、その人そのものを見ようとしない人が実に多くなってきているのではないかと感じています。そうした背景から、そのラベリングをされた個人が困ることになり、社会に拒絶されたり居場所がないように思うのかもしれませんが、そのラベリングには本来は時代によって都合よく変わる社会通念程度の縛りしかない筈なのです。

【時代と事情で変化し続ける社会通念】

 社会通念がいかに本質的でない(当事者の立場ではない)かは時代を振り返ってみれば分かるでしょう。現代ほど、社会通念の中でいう多様性が受容されている時代はないと思います。これまでは国民全員が同一の価値観を持つことが良しとされてきた時代があり、軍事国家においてはそれが好都合でしかありませんでした。一つの思想と権力のもと、他国と争わなければ他国に侵略されてしまう時代において、多様な考え方が出てきてしまっては不都合が大きかったのかもしれません。また科学的な知見も狭かったことから、今では考えられないような常識や差別が生まれた時代も多々ありました。

 これは蛇足な仮説ですが、資本主義の在り方すら疑問視されるようになってきた現代においては、一律に工場で働く人間を教育するようなやり方ではGDPも上がらないし、問題解決も難しくなってきたので、イノベーションを生むために多様性を推進しているとも言えるかもしれません。特異な異分子を排除してしまうコミュニティにおいては、そのコミュニティの価値観や見識以上のものが生まれることは滅多にないのは想像に容易い筈です。(多少、協調性のような社会性に必要なものが欠如していたとしても、iPhoneを生み出してくれるような天才が偶発的ではなく、定期的に生産する必要があるのだとすれば、多様性を尊重する風潮が意図的につくられたという考えも頷けないでしょうか)

 少し話が脱線しましたが、社会通念というのはこのように時代背景とその社会の必要性によって変化するものでもありました。しかし、現代においてはインターネットとSNSの普及により、こうした国家が一律な価値観を作るようなケースは滅多に見られなくなり、個々人の意見が可視化されるようになっています。そうした時、今までは気づくことのなかった多様性に気づくようになってきたとも言えるでしょう。しかしこれらはあくまで「その人」ではなく「その事象」について触れる機会が増えてきただけなので、机上の空論で何かが解決するものでもないと思います。(私のこの記事もそうですね)

【まとめ:ラベルではなく「その人の中の多様性」に向き合いましょう】

自身がこれまで出会ってこなかった多様性に触れた時、それをラベリングしてラベルの理解に努めようとするのではなく、「その人自身」と向き合い、受容できるかどうかの選択を迫られるものだと思います。

 考え方の枠の話が長くなってしまったので、先程のグラフでいうところの①や②をどのように考えていけば良いのか、そして手を動かして何を変えていけば良いのかはまた後日綴ります。

 また、朝井リョウさんの「正欲」で出てくるような多様性を受容する難しさや、適度な距離感が生み出す居場所の大切さ、個人が自身の多様性と真剣に向き合う中で必要なセーフティネットなどについてもまた後日。

 「障害や病気も家族の絆、人生の幸福を得るきっかけ」と考える文化や国(と地域)もある中で、日本、そして現代の世界では障害や病気とどう向き合い、当事者が幸福になる機会を作っていくのか。常に手を動かしながら、明日と明後日で考える基準を変え続けながら、「多様性」や「障害」と引き続き向き合っていこうと思います。

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