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家族すら幸せに出来ない人が他人を幸せに出来ないと思っていたけど、どうやら向き不向きの問題な気がしてきた。

 赤の素人他人の頭の中を覗くのにどんな価値があるんだろうか、こうして過渡期の思考を残したところで見返さないものもあるんだろうと思いつつ、深く考えずに深く考えたつもりのことを吐き出していく。

 最愛の人、を幸せに出来ない人間が他人を幸せにしようだなんて烏滸がましいと思っているんだけれど、それはどうやら違う気がする。
 最愛の人は大体距離が近い。他人は距離が遠い。距離が近いと、生活が絡んでくる。遠いと生活は絡みにくい。
 
 だから、生活を得意とする人と不得意とする人とで、幸せに出来る相手に違いが出てくると思う。例えば、マザーテ○サが大の掃除苦手だったら旦那さんとは喧嘩しっぱなしかもしれない。キン○牧師が実は変わった性癖があったら奥さんとは上手くいかないかもとか。
 それでも彼ら彼女らが赤の他人を幸せにしてきた事実は揺るがない。

 逆に、生活が得意な人っていうのは有利かも。無意識でも生活における摩擦を避けれると、その分他人に貢献するリソースは多そうだ。

 何の論的根拠も無い考えを巡らせつつ、家族も他人も幸せにしたい自分は欲張りだなと辟易する。けど嫌いじゃない。
 性悪説より性善説、善は行わないのではない、知らないだけだと信じている自分にも、まだ知らない事は沢山ある。世の中の出来事や身近な不幸や幸せをきっかけに、自分の中の固定概念や価値観を疑い続けて生きていきたい。


 何の話だ。。

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