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身体が動かなくなるまで、動く事がなくなったのは何歳ころからだろうか。中途半端に生きる事へのヘイトが溢れてくる

 フルマラソンを完走した時のように、体が動かなくなるまで運動したいなと毎日思ってるんだけど、単純に疲れ果てていない日々が続いているせいだと気付いた。

 フルマラソンは42.195kmだけれど、人によっては体が動かなくなるまでの距離は違う。10kmくらいの人もいれば100km走ってもまだ動ける人もいるだろう。そんな事を考えつつ、最近は自分が何km走れば体が動かなくなるのかわからない程度に、限界まで走っていない事に気づく。

 勿論、それはマラソンの話ではなくて、生活や仕事や趣味において、もうこれ以上無理、て感覚を味わっていない自分に辟易してきたという話。
好きなキムチやラーメンですら「もう食べたくない」という限界を迎える事は無いし(一食の限度でしかない)、本を読みすぎても「もう読みたくない」の限界が見えてこない。これは結構最悪な事で、オリンピック選手がそのスポーツを嫌いでも毎日15時間も練習するような境地には程遠い。

 好きな事ですら、一日15時間365日やり続けて、出涸らしになってもう二度と顔も見たくない、なんなら死にたい、自分が嫌い、みたいな感覚に陥らない中途半端な自分をどうこらしめようかと考えた結果、取り合えず立てなくなるくらいスポーツをしたいという結論に行きついた気がする(無意識的に)

 綺麗毎や中途半端に囲まれた生活を続けていると、ヘイト、所謂「クソが」と思うような機会に出くわさない。これは道徳的には「それはダメ」と言われるのは百も承知だけれど、例えば戦争へのヘイトや、汚職政治家への「クソが」という気持ち、もっと掘り下げれば自分の身内が殺された時にでも沸き起こる黒黒した気持ちといえば伝わるのだろうか。

 中途半端な「好き」のモチベーションは、疲れ果てて動けなくなる迄体を動かしてはくれなそうだから、「嫌い」のモチベーションが大事だと常々考えつつ、「嫌い」を前面に出すと周りの人間が遠のいていく中途半端な世界に生きているジレンマ。

 どっちが絶対、ということはなくバランスが必要だろうけれど、「好き」に溢れたふわふわしつつ肉体と精神を健康に保つことを善しとする時期と、「嫌い」に溢れた何もかもに反吐を吐きつつ、それを潰す為に肉体も精神も犠牲にする出力を善しとする時期を行き来する事ができれば良いのかなぁ。

 好きだけれど嫌い、みたいな感覚はいまいち人と共有しにくい。とはいえSNSなんかを見ていると、「これが好き!」よりも「これが嫌い!」の感情のシェアの方がスピードも量も多い。やっぱり中途半端な道徳や礼節や建前が邪魔をしているものばかりだ。

 一度もヘイトにのめり込んだ事が無い奴や、ロシア文学や明治の歴史を知らずに道徳を語る輩とかに距離を置きつつ、ぬるま湯に気持ちよく浸かってるとそのうち風邪を引くんだろうなと考える。

 昔どこかで、もうゴミになる陶器や皿、瓶などいわゆる「ワレモノ」を好き好きに壊せるサービス、みたいなものを見たけど、ああいう破壊的衝動を人に向けず、物にも向けず、自分と社会に向け続けるヘイトが昇華された時の美しさを感じていきたい。アート以外でそれを生み出せたら本望だ。

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