戦いは戦いであるだけで十二分にドスケベなのである〜映画『チャレンジャーズ』感想〜
『チャレンジャーズ』はあくまで戦いを戦いとして描く映画だ。そして、その姿勢を半ば頑固に守り抜くことでしか辿り着けない、愛欲の世界にタッチした稀有な映画だ。
『チャレンジャーズ』は三人のテニス選手の実に激しい三角関係と、それよって生じる愛欲の連鎖を、思いっきり寿いでみせる映画だ。相棒兼好敵手兼半恋人同士である二人の男子選手(ダブルスで勝利した際の彼らは、だいしゅきホールドさえカマしてみせる!)がカリスマ女子選手に惚れたことをきっかけに起こるあれこれを、13年にわたって描いた恋愛映画、とひとまず言っていいだろう。男子選手二人パトリックとアートをそれぞれジョシュ・オコナーとマイク・フェイストが、女子選手タシをゼンデイアが演じている。
この映画は、予告でもみられる三人でのチュー、ゆで卵、チュロスの喰らい合い、サウナ、そして何よりテニスの試合と、様々なアイテムを通して、お茶目かつ熱っぽく3人の愛欲を見せていく。勿論、三角関係(しかも、女を取り合う男たちの間にも性的な香りが漂いまくっている!)を描く映画なので、嫉妬や離別など、一般的に好ましいとされない要素も多分に入っている。しかし、この映画における愛欲は、そんなものたちによって哀愁を帯びたり、湿っぽくなったりするほど、脆弱ではない。むしろ、嫉妬も何もかも取り込んで、全てを愛欲の燃料にしてしまうのだ。上にあげた要素は勿論、この映画で描かれる愛欲は全て、嫉妬を燃料に、ただ二者がいちゃつくだけでは到達できない領域へとぶっ飛んでいく。
特に、3人全員が自分以外の二人への熱い嫉妬心と欲望に火をつけてテニスに挑むクライマックスは、何回素晴らしいと言っても足りないほどに素晴らしい。闘争心=愛欲が三人を包み込むこの場面は、ラブシーンとしてもアクションシーンとしても、異様な領域に突入している。テニスボールの視点となって動き出す画面、鮮やかなことこの上なく捉えられる汗まみれの肢体を見て、驚きを隠せる人はいないだろう。
本題から少々ズレるが、本作は、顔と同じくらい、ひょっとしたら顔以上に、演者たちの身体を強調している映画だ。ゼンデイアのしなやかかつ逞しい下半身(特にその長い足!)、ジョシュ・オコナーのモジャモジャした胸毛や赤く日焼けした脹脛、対照的に真っ白で赤ん坊のようなマイク・フェイストの肌。とてつもなくエロティックでありながら、奇跡的なまでに悪びれていない映像が、そんな彼らの身体を、じっくりと焼き付けるように映していく。
映画史上最も、闘争し、躍動し、発汗する身体を美しくかつしつこく捉えたと言っても過言ではないあのクライマックスは勿論、それ以前にも、ゼンデイアがこれみよがしにアキレス腱ストレッチを披露してくれる場面など、笑ってしまうほどに身体を強調した場面が、いたる所に挟まっている。
各場面で彼らが着ている服(マイク・フェイストの白と青のユニフォーム、そして青いテーピングはマジで最高)にも、身体を隠す、寒さを防ぐなど、従順に服らしい機能を果たしているものは殆どなく、むしろ裸である時以上に彼らのエロさを強調してくるような、生意気なやつばかりが揃っている。
普通、人は顔を見て、それが誰かを判別する。映画においても基本的にそうなっていたはずだ。身体、仕草、服装などを写して、あるキャラクターの登場を示唆するような場面なら、たまに見つかるだろう。でもそれにしたって大抵は、あくまで「あえて」そうすることで、顔のイメージを強調するものにしかなっていない。でも、『チャレンジャーズ』は違う。顔以外の部位も、顔と同じように主役を背負うことができる。そんなことを証明している映画でもあるのだ。
話を戻そう。本作の凄みはこれらの愛欲がむき出しになる場面の数々を、リズムを刻みつける激しいハウス、観客を置いていくほどの速さと蕩けさせるほどの遅さを行き来する目まぐるしい編集、そして躍動する身体と滴り落ちる汗を笑ってしまうほどにベッタリ捉えた映像で描き出すところにある。そこに、一切の緩みや哀愁はない。何よりも強く愛を描き出している場面なのにも関わらず、超バチバチなアクションだけがあるのだ。
では、もしこれらの場面で、しっとりとした音楽が流れ、ゆったりとしたカメラワークが展開され、淡くエモい粒子が画面に漂い出したとしたら、どうだっただろうか。いずれも、愛と性を描いたエモーショナルな場面なのは間違いないし、違和感はさほど無いだろう。むしろ、理解しやすくすらなるかもしれない。
でも言わせていただこう。それは妥協だと。言い訳だと。集団からはみ出る事の恐怖と高揚感を合唱で歌い上げるどこぞのポップスやら、助けるべき子どもを誰がどう見ても可愛く可哀想な「美少年」や「美少女」としてしか描写できない「人権意識」に溢れた作品やらと変わらない、明らかな矛盾をきたしている欺瞞だと。
本作を見る前の僕なら、こんな激しく、いやらしい悪口は言わなかっただろう。しかし、僕は『チャレンジャーズ』に出会ってしまった。そして大好きになってしまった。だから僕は、激しい悪口と共に言い切らなければ、気が済まない。これはあくまで戦いの映画なのだと。だからこの映画はこれほどまでにエロく、輝いているのだと。そして、戦いを戦いとして描いたこの映画を前に、半端なエモ表現はカスと化してしまわざるを得ないのだと。
勿論、ゆったりした映像と音楽の中、エモく愛情を描き出している場面も、あるにはある。疲れ果てたアートがタシに甘えてしまう場面なんかが、それに当たる。カエターノ・ヴェローゾ「Pecado」の哀愁溢れるサウンドの中で、タシに寄りかかるアートと、彼を受け止めるしかないタシの姿は実に切ない。
ただこの場面は、あくまで彼らが半端な状態に陥ってしまっていることを示すものに過ぎない。湿っぽい場面をみせることで、クライマックスの激アツ演出を際立たせる、という目的のために用意された、いわばザコい場面だ。生贄として、当て馬として、噛ませ犬として、しっとりした場面を見せた上で、やっぱ激アツが最高だろうがよ!と叫び散らかしてくる、実に感じ悪い映画こそが、この『チャレンジャーズ』なのだ。
『チャレンジャーズ』はどこまでも、バチバチがバチバチなままでエロくなる瞬間を寿ぐ。それをわざわざエモくしたりしたら、濃度が下がってしまう。濃密な戦い自体が、そこに突っ込んでいく身体の躍動自体が、もうすでに何よりも甘美な愛欲なのだ。
実は戦いってのはエロいものなんだよ、でも、実は戦いの中にもエロがあるんだよ、でもない。「実は」などと言ってこの二つを切り離す、そんな前提ごと、『チャレンジャーズ』は残忍なまでに、そして頑固なまでに、切り捨てみせる。
しかも『チャレンジャーズ』は、身体を動かして戦うことの魅力を、これほど豊かに捉えながらも、決して単なるスポーツ賛美、あるいはスポーツマンシップ的なものの礼賛に堕さない。むしろ、スポーツに付きまとう健康的、あるいは紳士的なイメージを徹底的に破壊してみせるのだ。
スローでじっくりグシャグシャに破壊されるラケットを捉える場面、審査員に暴言を吐きまくる場面、そしてこれらの行為が原因でペナルティを受けてもニカニカ笑っている場面などなど、マジで枚挙に遑がないのでこの辺にしておくが、主人公たちの不遜さを示す場面がとにかく至る所に転がりまくっている。そもそも3人間で交わされる愛欲の数々を、不貞を織り交ぜながらも、熱く、肯定的に描いてみせる、というこの映画のコンセプト自体、我々の多くが懐きがちな紳士像からすれば、無礼極まりないものだろう。
こうして『チャレンジャーズ』は、肉体が躍動する喜びを他の追随を許さないほどに探求しつつも、それが「スポーツマンシップ」的なものへ回収されることを断固として拒否する。そこに唾を吐きかけ、不遜さ、エロさこそが本当のスポーツなんだぜ、と宣言してみせるのだ。
これまで紹介してきた『チャレンジャーズ』のスタンスは実は、序盤でパトリックが呟くあるセリフに要約されている。闘争心あふれるタシの姿に魅せられた彼は、同じくタシに惹かれているアートに「ラケットでファックされたい」と語りかける。しかも、その発言自体がアートをより燃え上がらせ、よりエロくさせ、自分たち二人の関係をより濃密にするものであるということまで、十二分に計算しているようなニヤケ面を浮かべながら。
他の盛り上がりと比べれば少々控えめなこの場面に、実はこの映画の所信表明がバッチリ宿っている。ここだけ聞いたら、「え?どんな映画だよ。。。」と引いてしまう人もいるかも知れないが、この映画は頑固なまでに、こんな映画なのだ。そして、僕はこんな不遜でドスケベな映画に、映画館でタコ殴りにされることができて、とっても幸せなのだ。
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