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『英語教師 夏目漱石』

今夏、University College London (UCL)の Summer Course in English Phonetics (SCEP)に参加することもあり、1900年、そのUCLに留学した夏目漱石の英語教師としての姿に光を当てた『英語教師 夏目漱石』(川島幸希, 2000, 新潮選書)という本を読んでみた。

夏目漱石の「方丈記」英訳

まず、「第1章 漱石の英語力」で感銘を受けたのが、明治24 (1891)年に帝国大学英文学科のディクソン教授の依頼で英訳したという「方丈記」の英文:

ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。

Incessant is the change of water where the stream glides on calmly: the spray appears over a cataract, yet vanishes without a moment's delay. Such is the fate of men in the world and of the houses in which they live.

『英語教師 夏目漱石』 p. 62

原文を英語に写し取った名翻訳。この英文を紹介することも、本記事を書こうと思った大きな動機の1つです。

明治時代から一歩も進んでいない英語教育

「第2章 漱石の英語教育論」を読むと、令和元年の現代における英語教育の諸問題を論じているのだろうか?と見紛うような箇所がいくつもあった。漱石の英語教育論の骨子をまとめると:

「良教師を得る事」—教師の質の向上
棒給へのこだわり—能力ある学士を教職に惹きつけるだけの待遇
「教授法を改むる事」—音声面の指導を重視

という3点を重要としていることがわかる。漱石が当時の(英語に限らず)中学教師の質を批判して曰く:

当今尋常中学校の教師には何処にて修行したるや性の知れぬ者多く[…]学識浅薄なる流浪者多し (p. 73)

とあるが、現代でも英語試験の点取り合戦に躍起になるばかりの「学識浅薄なる浮浪者」は後を絶たない。また、教育予算を出さない行政に対する次の批判は、趣旨そのものとしては東京オリンピックを前にした現在の政府に対してのものであるかのような感を抱く:

軍艦も作れ鉄道も作れ何も作れ彼も作れと説きながら未来国家の支柱たるべき人間の製造に至つては毫も心をとゞめず徒らに因循姑息の策に安じて一銭の費用だも給せざらんとす是等の輩真に吝嗇*の極なり(p. 76)
*【注】吝嗇(りんしょく):けち

日本の英語は「変則英語」

明治期の英語教育には「正則」「変則」という教授法が存在した。このうち「変則」というのは漢文訳読を英語にも強引に当てはめ、音声面を無視してテキストの内容解読を最優先するものであった。細かに説明するよりも、以下の写真をご覧いただいた方がイメージが湧きやすいであろう:

しかしながら、ガリレオが中学生だった頃(明治時代ではない)の教科書ガイドですら、その中身は「変則英語」に非常に似通ったものであった。中1の時には「とりあえず揃える」ように購入したものの、結局マトモに開くことも無く、中2以降は一顧だにしなかった代物である。流石に今日のものは変わっているかと思って調べてみたが、どうやらいまだに明治時代から何も進歩していない変則英語を垂れ流し続けているようだ。

これに対し、発音やアクセントなどの音声面を重視する教授法を「正則英語」と呼び、漱石は音読の重要性を強調するなど正則的な教授法に賛同していた。実際、第4章で紹介されている東京帝国大学での『マクベス』の講義の様子では、以下の Lady Macbethの “We fail.”という台詞に対して、「名優 Mrs. Siddonsは、この一句を ① interrogation(→上昇調), ② exclamation (→重々しく), ③ “If we fail, we fail.”という諺として(→軽く)…という三様に言い分けた」という、発音・イントネーションに関する詳細な解説を展開している。

Macb. If we should fail?
Lady M. We fail. —Act I, Scene vii

明治時代であれば、
①外国人教師の不足
②日本人教師の大多数は音声指導に不安
③学生にとっては会話よりも入試の点数に関わる訳読の方が大事
といった事由により、変則英語の方が主流となっていくのは仕方がないとも言えよう。

しかし、そこから100年以上経った今でも、特に②の状況が改善されていないのはどういうわけか。それこそ夏目漱石などは稀なケースで、留学機会など非常に限られており、テープレコーダーの類など一切無いという時代に生きているのではない。現代の英語教師は、正しい英語音声学の知識・技能に、手を伸ばしさえすれば届く環境に生きているのである。

ガリレオは、手を伸ばしました。
漱石はUCLの講義には見るべきものが無いと途中から授業には出ず、クレイグ先生の個人教授を受けるようになったというのが定説のようですが、そこまでの境地には達せていないので、SCEPの授業・演習は楽しみにしています。

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