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演じる、振る舞う、自分を偽る

タイトルから推測すると、ネガティブな記事のように感じてしまうが、人を騙したり、陥れるためではなく、ビジネス上、今の自分よりもう一段階上の自分を演出するという話。

等身大の自分は自己肯定感の強い人間でもおそらくは理想とする人格のや性格の完成度からすると納得できるものには至っていない人がほとんどだろう。

私自身もそれなりの自己肯定感は持ち合わせてはいるものの目指すべき人格や理想の性格には程遠い現状だ。むしろ自身のネガティブな部分にスポットを当て始めたら瞬く間に自己嫌悪の沼に引きずり込まれてしまう。よって、バランスを取る意味でも改善できることの努力や諦め(切り捨て)は実行するが、そのことだけをウジウジと考え続けることはしないと決めている。時間の無駄だし、沼の深さからなかなか戻ってこれないからである。

しかしながら、ネガティブな部分にも可能性は秘めているもので、コンプレックスの類は『いまだ改善できていない伸びしろ』と、再定義してやることで思わぬプラスに変貌することが多々ある。

その際にできていないにもかかわらず、できる自分を演じているうちに実力が追い付き、いつまにか克服している、なんてことがよくあるのだ。

私はいたって育ちのいい人間ではない。真っ当な道からはことごとくはみ出した半生を送ってきたがために、元々は自己肯定感は低く、他人に貢献しようなんてことも考えたこともなかった。当然、見た目も、言葉遣いも相手に対したものではなく、人を不快にさせてしまうことの方が多かったように思う。

商売を意識し始めたあたりから、それではダメだと気付き(遅すぎる気づき)見た目や、言葉遣いをどうしたら信頼に値するか、相手に好意を持ってもらえるかを考え、振る舞うようになった。最初は演じている自分でも違和感しかなかったが、効果が実感できるようになり、自然と板につき始めたのが不思議な感覚だった。当然目の前の相手は私の過去など知るはずもなくこの瞬間、演じている私を事実として受け入れてくれるようになるのだ。小さなリセットボタンを押したような感じか。

心の底では本性の自分が『そんな人だったっけ?』と毎度ツッコミを入れてはいるが、そんな本性の自分さえも演じることや振る舞うことはいい意味で偽ることは可能である。

そして、意識のベクトルが自分に向いている間はそういう感覚や行動は身につかないが、意識のベクトルが相手方に向き続けていると自ずとそういう感覚や行動に反映されていくはずだ。職種にもよるが若者が髪を染めたり、ピアスをしたりしているのは自分をオシャレに見せたい、強面に見せたいなどの相手から好意を期待するものではなく、あくまで自分をどう見せたい、というベクトルが自分に向けられた表現と捉えられるが、一般的な商売においては完全にマイナスな表現になっている。コンビニエンスストアで二つレジが空いていて一つは金髪ピアスの店員、もう一つは黒髪短髪のさわやかな店員であれば並びたいのは後者になるだろう。人は見ためで判断してはしてはいけないが、どちらが相手にベクトルを向けた表現をしているかは一目瞭然である。

この場合、金髪ピアスの店員は実はボランティア精神にあふれる好青年の可能性はあるが、黒髪短髪の店員は元不良ではあるが、改心し人に不快感を与えないように振る舞っているとしたらどうだろう。結果どちらも好青年ではあるがベクトルを相手に向け、表現として振る舞って演じている黒髪短髪の店員を人は信用するのが現実である。

意識を相手に向け過去の自分の行いは改め、相手に尽くす、信頼を獲得しにいく姿勢は後天的にでも備えることは可能だ。最初は真似事や見せかけでも構わない、振る舞っているうちに理想の人格が憑依して本性の自分を塗り替えていくことは大いにあることだ。

大切なのは相手に対して自ら発することを疑似体験の段階から感じてもらおうとする姿勢によって生まれるものだと思う。へたくそな敬語でも相手に誠意は伝わるものである。

本当の相手の信頼を獲得するために自信に足りないものを演じて身に着けよう。身に着けようとする姿勢そのものが誠意の小さな種になる。

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