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あなたはウジ虫です。今のところはネ。(2020年度弁論大会入賞)

ボクたちは、神である!

これは私の敬愛する歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏が名著「ホモデウス」の中で語ったことであります。
彼はこう言うんです。

「私たちは神である。私たちは遺伝子から世界の全てに至るまでを自分の思う通りに作り替えることができる、すなわち神だ。そして我々が神にまでのし上がったのは、この想像力があるからだ。」

この紙屑を見て欲しい。ここにはボクの名前が書かれている。でもあなたはその想像力でこれをお金だと言い張ることができる。そんなことを色んなことに適用して神にまでのし上がったんだ。

じゃあ人間が想像力を失ったらどうなるのでしょうか。まずはこうなります。(紙をクシャッとしてポイっ)貨幣制度どころか人間の文明は滅びるでしょう。でもそんな大袈裟なことでなくていいんです。
例えばこうです。246で反対から歩いてきた人にぶつかっても謝らずにバイバーイって済ませればいいんですよ。相手の気持ちどころか後で苦情が来るって想像すらできなかったんでしょうかね。
もうわかったでしょう。ボクら人間は想像力を失うと他人を傷つけるんですよ。

もっともっと傷つく人を増やしたらどうなりますか?そうですよ、いじめです。SNSの誹謗中傷です。
あーなんだそんな話か。そう思ったでしょう。じゃあ答えてくださいよ。なんでこんなに世の中で叫ばれてるのに悲劇は世界から無くならないのですか?
実は単純なんです。答えはドーパミンだ。あなたが相手を罵る時あなたの脳にはドーパミンが分泌されるんです。
どういうことか。あなたは少数を寄ってたかって虐めるときそこで快楽を得るん生き物、そう、ウジ虫なんです。まだ自分のことを神だと思ってるんですか?本当にコロナで人間が変わったと思ってるんですか?何も変わってないんですよ。人間は遥か昔からずっとずっと変わらずにウジ虫であり続けてきたんです。まずそこを認識しましょうよ。

じゃあ人間が神になるにはどうすればいいんだ。
単純ですよ。考えればいい。人間は考え続けて神として身分を偽るしかないんだ。だからボクはこう言います。考えて人に接しようって。それだけです。単純でしょう。

でもよく聞いてください。ボクは別に誰に対しても優しくしろなんて言ってません。だってそんなの無理だから。誰にだって好きな人嫌いな人はいます。向き不向きはありますよ。そんな嫌いな人間に優しくあれなんて無理ですよね?じゃあこうしましょうよ。殴ればいい。罵ればいい。その方がよっぽど潔い。
だからその点、ボクのいる6年E組は素晴らしいと思っていて、というのも6Eには共演NG制と言う生意気な制度があるんです。例えば体育でバスケのチームを作らなくてはいけない時に、だいたいボクが作ってたんですけど、ある友人がこう言ってきたんです。
「ちょっとさ、俺こいつと仲悪いから一緒のチームやめてよ」と。
最初は何を生意気なこと言っとんじやと思いましたよ。だって共演NGなんでダウンタウンとんねるずくらいだと思ってましたから。でも今思えばこれ素晴らしいことなんです。考えてみてください。他者に対応を押し付けるくらい明確な対立がそこにはあるんです。じゃあそれを生んだ2人の間には何があったでしょう。そうです、覚悟です。相手を友人として失ってもいい。そんな覚悟しかない。なんでああしなかったんだろう、そんな後悔などあるはずがない。

まとめましょう。ボクが皆さんにして欲しいのはこの後悔をしないように考えて行動をすることです。単純でしょう。まず相手を友人として失ってもいいのか。そこから考えましょう。失ってもいいと思うならボクは何も言いません。でも失いたくないそんな人には考え続けるしかないのです。

話していてつくづく思いますよ。本当にボクは単純なことしか言ってませんね。でも人はこう言うのです。
「当たり前のことを当たり前にするのが難しい」って。
「人は失ってから初めて価値に気づく」って。
そんなわけがないでしょう。今日聞いてくれた皆さんなら分かるはずだ。あなたが複素数の計算に、リスニングで場面を浮かべるときに使うその想像力を、ちょっと目の前の人間に使うだけだ。 

ボクら高3はもうあと1か月くらいしかないんだよ。でも今聞いてくれてる1から5年生、お前らまだ腐るほど時間あるだろ。
心は胸にない。頭にある。
だからどうか考えて考え考え抜いてその都度目の前の人間に最適解を見つけていって欲しいと思います。

最後になりますが、そんな当たり前のことを当たり前にできる世界が来る事を願って今はこう叫んでおきましょう。

ボクたちは、ウジ虫である!
今のところはね。

弁士コメント

ボクは謙虚な人間になろう。半年前くらいから常々意識してきたことだ。だからまずは人の言うことをすんなりと聞き入れよう。それが受験には大切だ。ボクの先輩はそう言い残して卒業していった。
いざ受験生になって、それを痛感した。自分と徹底的に向き合う日々。苦しみの中でやりがいを見つけるまでのエンジン。それがボクにとっては謙虚さになっていた。謙虚さ、素晴らしいじゃないか。

でもそれがボクを苦しめた。どうしよう。弁論の原稿作れねえ。元々は国語科のU先生に楽しみにしてると言われて嬉しかったから出ることにしたものの、話したいことがあるわけでもない。にしてもなぜ何も浮かんでこない。どうして……。

そんなボクに親友N君が言った。
「良かった。敵じゃなくて」
彼はボクと同じ大学を志望していて、どうやら同じ学部志望と思っていたらしい。そっか。受験生ってみんな敵なんだよな。でもそれを感じることは学校ではあまりない。なぜか。単純だ。その意識を生み出さないようにしてるからだ。ある日のホームルームでボクの担任は言った。

「いいか、みんなで、このクラスで受験に挑むんだ。」その一言で敵意は中和され仲間意識が生成されたと感じた。そうか学校のみんなは仲間なのか。いやでも、N君は少なくともボクのことをライバル視してくれていた。どうしたものか。学校とはなんぞや?

その瞬間閃いた。そうか、足りなかったのはこれだ。この思考だと。自分は全てを受け入れていた。周りの人間の言説を熟考せずに自分の中に取り込もうとする。そりゃ何も出てこないわ。だって身の回りに疑問を持とうとしないんだもの。この批判的思考がボクの新たなエンジンになった。
だからボクの弁論は人が言いそうなことの批判で溢れかえってる。でもでも言ってることは耳タコ話のオンパレード。あえて言わせてもらいたい。美しくないですかこの弁論。

でも結局のところ、ものはいいようなのかもしれない。壇上から見下ろして語る校長の話は響かないけど、弁論で話してる先輩の話は聞こうと思う人もいるかもしれない。そう思って参加した今回の弁論大会。最初で最後だったし、優勝にかすりもしなかったし、早口すぎて聞き取れなかったけど感動したよと言われたけど、ボクの言いたいことは言った。ボクは満足。それでええんよ。なんか胸がジーンとしたとかそれほどの言葉にできない感慨を、言葉にしないでそのままに捨て置くのはあなたの勝手だ。その場にある悲しみも喜びも全てを受け入れようと「謙虚な」人間になるのもいいし、何もかも目の前の物事を否定しようとするのもいいと思う。

みんな違ってみんないい。そう叫びながら悲劇を繰り返す。ああなんて面白い生物なんだろう。ボクは。
ああホモ・サピエンスに生まれてきてよかった。
ありがとうたくさんの神様。ありがとう世田谷学園。

(高校3年 䑓 崚)

Photo by Rafael Garcin on Unsplash


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