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声のむこうにいるヒト(『あなたのための物語』レビュー)

 AI技術の進展により世界がどのように変わるのかを考える際に、研究書ではなく、小説を読んでみるのはどうだろうか。科学技術が自己目的化の傾向にあるとはいえ、それは手段でもある。AIという手段を手にした人類が、それをどのように使うのか。その使用は人類の想像力と大きく関わるに違いない。もちろん専門的な研究によって示される現実的な限界点を無視するわけにはいかない。しかし、可能な技術をどう使えてしまうのかは、研究者のみの問題ではない。
 原子力に関する技術はどのように活用されただろうか。実現可能か否かの厳密な判断は専門家に譲るとして、可能かもしれない未来を考え、人類の想像力が生み出す世界を知るためには、フィクションの世界で勝負している作品群に目を向けるに如くはない。
 「シンギュラリティ」という言葉も広まり、科学技術の進歩は未だとどまることをしらないように感じられる。人間固有の領域が狭まっていけば、「人間」という概念も変更を迫られるだろう。

 創造力が人間の拠り所とするならば、創作行為は人間のみに可能な営みだろうか。2016年の第3回日経「星新一賞」で、人工知能が書いた小説が一次審査を通過したというニュースを耳にしたことがあるかもしれない。AIが作った作品なのか、AIで作った作品なのかという問題はあるにしても、注目すべき出来事には違いない。

 AIは小説を書けるのか。
 この小説に登場する《wanna be》は商品開発のために作られたAIで、機能実験のために小説を書くことを課せられている。だが、先の問いがこの小説の中核をなすわけではない。
 開発者であるサマンサがどのように自分と向き合い、《wanna be》をどのように位置づけ、データとして再現された自分自身をどのような存在とみなすのか。そして、どのように生きたのか。AIは人格なのか。データ化された自分自身はオリジナルと同等の存在とみなしうるのか。そのデータを消去する権利は誰が持つのか。様々な問いが生じる。サマンサの人生を追う中で、今後出現するかもしれないAIとともに生きる世界が描かれている。その世界で、「人間が生きる」ことが考えられている。

 小説は誰のものか。必要とする者のためのものであるならば、作者が誰であるのかは関係がない。サマンサにとって《wanna be》の描く小説が必要であるのならば、AIによる小説は成立する。AIと人との区別は霧散する。さらに言えば、作者すら必要としないかもしれない。

 『あなたのための物語』は誰のための物語だろう。「あなた」とされる「私」のための物語でもあってよい。いや、むしろ「私」のための物語になってくれたらと思う。

 SFは今後起こりうる未来を考える上で大きな示唆を与えてくれる。これからの世界はどうなるだろうか。その世界で生きることを考えるなら、その世界を生きた人物の人生を読書を通して、共に生きてみるのがよいだろう。
 だが、思考実験としてこれからの世界を考えるという視点だけでこの本を勧めるわけではない。

 「人間」という存在について考えることを迫られる。肉体を持つものとしての意味を突き付けられる。そして、無数の問いが浮かぶ。
 思考が言語ならば、その言語をコントロールすることで思考をうみだせるのではないだろうか。人間の思考が結局のところ脳の電気信号の点滅以外の何物でもないのだとしたら、それを解析して、onとoffの二進法で記述することによりコンピュータを用いて人間をつくりだせるのではないだろうか。
 プログラム言語を用いて情報を記述することで人格を作ることができるなら、人格は記述されたものに還元することが可能となり、言語が人格となる。ならば、すでに記述されているテキストはプログラム言語に翻訳でき、世の中に氾濫するあらゆるテキストは人格といえるのではないのだろうか。
 テキストが人格であるのであれば、人は今までどれほどの人格を生み出してきたのだろうか。そしてなんと無自覚に変更を加え、削除し、廃棄してきたことだろうか。
 音声入力が示すように、記述される前のものも十分にテキストとみなすことができる。会話の中にすら無数の人格の断片が含まれている。それらをどこまで統合されたものとして提示しうるのだろうか。
 人間の情報を取り出して保存することで、人間は肉体の牢獄を離れ、永遠を手にすることができるだろう。それは、ユートピアと呼べるだろうか。そこで生きているのは誰なのだろう。
 自分の研究をアイデンティティとして、死を恐怖し、それを拒絶し、自分の情報を言語化して保存することで、それを乗り越えようとする主人公の孤独はどう救済されるのだろうか。
 取り出された情報にも人格が認められる。では、人格とそうでないものをわける境界はどこにあるのだろうか。
 冷たい人間よりペットに愛情を抱くように、優しい言葉をかけてくれるAIにも愛情を抱くだろう。そのような感情を人間に対するものと区別する必要があるのだろうか。
 ネットでやり取りしている相手は、すでにプログラムであるかもしれない。不在の人から届けられるメッセージがある。電気信号によって情報を伝えられるなら、脳にジャックを差し込んでそれを直接伝達すれば、もう言語は必要ではなくなるのかもしれない。
 かように、優れた作品は多くの問いを生む。

 「言葉」が持つ意味の範囲が拡張されていく。未来像への手掛かりが与えられる。考えるべき問題と一緒に、想像しうる答えの一つを示してくれていることにも感謝する気持ちを抱いた。AIにおける人格問題に対する一つの答えも用意されている。
 何が大切だったのだろう。主人公の女性の苛立ちも確かにあるのだ。プライドや弱さとか、肉体的な苦痛への恐怖とか。人間が生命体であることの限界だとか。関係や価値観との相違から生じる親との対立やうまく行かない家族関係、それでも愛おしい存在。自分が手放したものと得たもの、得たかったもの。

 主人公のサマンサ・ウォーカーは問題を抱えながら人として生き切った。この本は、その人生を辿る物語でもある。

(国語科教諭)

Photo by Franck V. on Unsplash

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