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クリストファー・ノーランの執着心(『ノーラン・ヴァリエーションズ クリストファー・ノーランの映画術』レビュー)

 はじめて『メメント』(2000年)を見た時のことは、今でも忘れられない。十分間しか記憶が保持できない前向性健忘の男、レナード・シェルビーの視点で語られるこの作品は、〈順行する過去の物語〉と〈逆行する現在の物語〉がラストシーンで交差するという、きわめてアクロバティックな構造を持っていた。喩えるなら、建築物を構成する精巧なパーツが一つずつ並べられていき、ラストシーンでその大伽藍の相貌が霧の彼方に朧げに浮かび上がるような。エンドロールを眺めながら、頭の中で目を凝らし――奇妙な表現だが、そうとしか言いようがない――その全容を捉えようとするが、目を凝らせば凝らすほど細部の不明瞭さが際立ち、気づけばそのままもう一度、再生ボタンを押していた。幸いというべきか、僕はこの時DVDで鑑賞していたのだ。もしも、劇場で見ていたら、どんな気分で席を立つことになっただろう。

 くすりとも笑いは起きなかった。会場は水を打ったように静かなままだ。(中略)空白の数秒間。でも、嫌な感じというわけでもなかった。もちろんとても怖かったが、同時にとても誇らしく思っていたのを今でも覚えている。そして数秒後、嵐のようなスタンディングオベーションが起こったんだ。実にすごかったね。あれは間違いなく僕の人生の転機だった。(『ノーラン・ヴァリエーションズ』p.102)

 クリストファー・ノーラン監督がこう語るのは、『メメント』がヴェネチア国際映画祭で上映された時の様子だ。僕には、この時の観客が抱いた感覚がよくわかる。『メメント』を見て、同じような思いを抱いた人は多いだろう。
 このような感覚は、その後のノーラン作品で、幾度となく味わうことになる。『インセプション』『ダークナイト』『インターステラー』、そして最新作『TENET テネット』――作品名を挙げるだけで、思わず溜息が出る。であればこそ、クリストファー・ノーランという存在が、そして彼の映画が、どのようにして生まれたのか、興味を持つなという方が難しい。
 この『ノーラン・ヴァリエーションズ』は、膨大なインタビューを通じて、ノーラン作品を彼の人生から捉え直していく。生まれ、育った環境、特にヘイリーベリーと呼ばれる厳格な全寮制のパブリックスクールについて語ったこの言葉は、非常に示唆的だ。

 多くの映画制作者は組織と戦おうとやっきになるか、中途半端に戦っているだけだ。僕はどこまで自由にやれるか、常に構造――つまりハリウッドと駆け引きをしている。基本的なルールには従うが、従属はせず自分を持ち続けること。これが寄宿学校での経験から得た教訓だ。(同 p.46)

 ここに登場する「ハリウッド」という言葉は、極めて重層的に響く。映画業界の巨大な骨組みであり、映画制作のシステムであり、エンターテインメント映画の書法であり、劇映画の持つ構造をも指す。
 例えば、クリストファー・プリーストの小説『奇術師』を原作とした『プレステージ』(2006年)について、本書の著者トム・ショーンはこのように指摘している。

 4つの異なる時間軸、盗まれた日記、回想シーン中に登場する回想シーン、身代わりと身代わりの身代わり――非常に複雑で意外な展開の連続で、このあとにノーランが作ることになる数々の作品の予兆のようにも感じられる、その一方、一貫して描かれている感情は明確でわかりやすい。それは、異常なまでの執着心だ。(同 p.170)

 また、撮影と編集の過程について、ノーランはこう語っている。

 『プレステージ』は、ネガをデジタル化してコンピュータ編集することを会社から求められた最初の作品だ。ディズニーの編集チームとは何度も議論したが、僕らはフィルムでのテスト上映にこだわった。(中略)『プレステージ』は、僕らのやり方が映画業界の一般的な手法とは違うとはっきり線引きした作品だ。あるいは、僕らが線引きされた側かもしれないが。(同 p.180)

 「基本的なルールには従うが、従属はせず自分を持ち続けること」――その言葉が意味するところが見えてくる。あるいは、この『ノーラン・ヴァリエーションズ』を通じて伝わってくるのは、ノーラン自身の「執着心」と言えるかもしれない。
 ノーラン好きはもちろん、映画表現の可能性に期待を寄せる人にとって、本書は素通りできない一冊だ。ただ、同じように考える人は多いようで、書店では品薄状態が続いている。重版はかかっているようだが、いつ品切れになるか分からない。
(ちなみに、同出版社から昨年9月に刊行された『メイキング・オブ・TENET クリストファー・ノーランの制作現場』は品切れ状態だ。早めに買っといてよかった。)
 というわけで、ご購入はお早めに。

鵜川 龍史(うかわ りゅうじ・国語科)

Photo by Raamin ka on Unsplash

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